マタイ15章21節〜28節
イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、
女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。(日本聖書協会・新共同訳から)
「ひと言のちがい」という本に次ぎのような話がありました。
「JRの駅のトイレに入った。用をたす。その目の前に貼り紙があった。《汚さないでください》といった注意書きではなかった。それでいて、何となくきれいに使いたくなる貼り紙だった。その内容は・・・。《きれいに使って頂いてありがとうございました》」
私たちのまわりには《否定語》を使うことが多々あります。自分のことを反省してみると、子供にたいしてなんと否定語が多いことかと、がっかりします。注意や禁止を告げる言葉も、言い方によっては人を傷つけづにすむものです。「京都の人は否定語を使わずに断るのがうまい」と作家・渡辺淳一さんは言います。どのようにうまいかといえば、男性がデートに誘う。相手方がその気がなければ次のようにやわらかく断る。「おおきに、ほんまごいっしょでけたらよろしおすな」。こういうふうに言われると傷つくほうも少ないように思えます。
イエス様の言葉はどうでしょうか。イエス様による否定語ということを考えてみますと、あまりピンときません。むしろどんな御言葉にも励まされているように思えます。たとえいけないという言葉でも、それが私たちのことを考えた深い言葉であるならば、人は前向きに受け取ることができるのです。主イエスの御言葉はどんな言葉でも感謝して受け取ることができるのです。ところが本日は違います。イエス様は全否定をされたようにみうけられるのです。しかしそれはイエス様の苦難からのひとことの否定、愛ある否定かもしれません。
それでも「ことば」には、さまざまな力があります。人の言葉でも神様の心を動かし、人々を救いに至らせることができます。そのことへと目を向けさせるのが、「カナンの女」の言葉ではないでしょうか。
本日の聖書をみてみましょう。ここには驚くべきことが書かれてあります。それは、主イエスの心を変えた出来事が記されているからです。
ユダヤ人は主イエスを救い主と認めず、主イエスの奇跡をみても悔い改めませんでした。しかし反対に罪人と呼ばれていた異邦人は、イエスを主と呼び、信仰の告白をするのです。結果的には、やがて始まる異邦人伝道の先取りがここで行われたのです。異邦人への伝道。それは、あってはならないことでした。なぜなら、ユダヤ人のみの救い主だったからです。
主イエスは、異邦人のカナンの女の願いに「何もお答えにならなかった」とあります。あまりにも冷たいように思います。主イエスだったら娘を癒すことくらい簡単だったと言えます。しかし、あえてそれをなさらなかったのです。いやできなかったのです。答えたくてしかたなかったのに、答えられなかったのです。そのことは、それ以後語られた2つの言葉でわかります。
「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」。「子供たちのパンを取って子犬にやってはいけない」。
さてここで注目してほしいのは、実はこの言葉は、カナンの女に向かって言われたのではありません。よく読んでみますと、カナンの女に言われるときは、「婦人よ」と呼びかけています。この2つには誰にを意識的に曖昧にしてあるのです。なぜなら、この言葉は主イエスが自分に問いかけている言葉だからです。私はイスラエルのために遣わされた。それが神様の使命だと、あくまでも神様に忠実であろうとされているのです。つまり、主イエスは自分の使命を確認するために、否定の答えをされたのでした。
ところが、カナンの女の「ことば」が、主イエスを動かしたのです。その言葉は「パンくず」です。彼女は「子供のパン」を願いませんでした。あくまでも自分は異邦人として「パンくず」を願ったのです。しかし、その「ことば」には信仰と命があったのです。大切なことは、いま自分の置かれている状況の中で、自分を知り、そこから「ことば」を出すことです。
五、七、五のなかにすべてを集約させていく俳句。その俳句をつくってみようと考えましたが、やっぱりだめでした。どうしてもとってつけたような言葉になってしまうのです。素直に感じたままを言葉にするのは大変なことだと思います。
「ことばとはこころの震動を伝えるものだ」とある本に書いてありました。「ありがとう」の一言でも、こころの震動を通して伝わるとき、それは感動をもたらすのです。
神様の言葉(ロゴス)として、主イエスはこの世に来てくださいました。神様のこころがどうしても人を救いたいと震動しておられるからでしょう。人の救いのために主イエスはとことん仕えられます。十字架というご自分の死でさえも徹底的に仕えていかれるのです。この主イエスの震動が人を生かすのです。
言葉を選ぶよりも、こころを伝える姿勢に変わりたいです。俳句とはこころを震動させて伝えることだとわかったのは、この小学生の句に出会ったときです。
天国も もう秋ですか おとうさん 塚原 彩 『ちいさな一茶たち』より。
私たちの生きる場にあって、一体何が大切でしょうか。それは、自分を救いに至らせる神様との出会いではないでしょうか。その出会いが、その人を信仰へと導き、その人の人生のすべてを導くのだといえます。カナンの女は、娘のいのちの大切さを通して、結果的には神様と出会う経験をしたのです。そのことが、娘の癒しにつながったといえます。決して娘が癒されたという御利益が彼女を信仰へと導いたわけではないのです。
私たちは、神様との出会いによってどんな「ことば」を語るのでしょうか。その「ことば」は私たちを支える信仰の「ことば」となって、人をも活かしていく「ことば」となるのです。
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