文京カテリーナ・クリスマス礼拝説教
◆イエスの誕生が予告される
六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。
ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。 天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」 天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。
神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。
(日本聖書協会・新共同訳聖書より)
雑誌の中に次のような言葉を見つけました。「自分にYESと言えるか?」。たぶん、自分の人生を肯定できますか?ということでしょう。自分がやっていること、自分の過ごしている毎日、友達との人間関係、そして生きざま。そのすべてを肯定し、「YES」と言えるか?という問いだと思います。
しかし、私たちは自分自身を簡単に肯定できるかといえば、そうではありません。むしろすぐに「YES」と答えたら、それは自分をよく知らないのであって、傲慢かもしれません。自分を静かにみつめるアドベントは、そんな私たちの生き方の破れを見つけるときです。また「YES」と言えない自分にきがつくことです。
イエスの母となったマリアもはじめは「YES」と言えない自分がいました。しかし、み言葉に支えられて「YES」と言える自分になれたことを教えます。その背後には神様のみ言葉と大きな配慮がありました。
さて、本日の聖書の中に「おめでとうマリア」「おことばどおり」というものが出てきます。この言葉はよく御存知の「受胎告知」の場面です。おとめマリアのもとに、天使ガブリエルがやってきてイエスをみごもったことを伝えました。しかも天使は最初に「おめでとう、恵まれた方」と言ったのです。
この出来事は本当におめでたいのでしょうか。もちろん神様の側からは、おめでたいことです。神様の約束の成就がここにあるからです。しかし、人間の側、マリアの立場で考えるとこれほど悲惨なことはありません。単純に赤ちゃんが生まれるということではないのです。この出来事はマリアの人生に無理やり介入してきた出来事だったのです。しかもマリアは14歳~16歳だったと言われています。
婚約者ヨセフの知らないところで身ごもってしまったマリア。それは家族さえ知らないところでおこってしまった出来事。誰にも信じてもらえない出来事が起こったのでした。そう考えると、この出来事はマリアの心の傷になったことでしょう。しかし、マリアはそのことを受け入れたのでした。それは聖なる傷として受けとっていかねばならなかったのです。
クリスマスの隠れたテーマは「信頼」と「配慮」です。神さまのみ言葉への信頼と、神様が共におられるという「配慮」。それによって目にはみえない出来事を受け入れることができるかということです。マリアは天使ガブリエルの言葉を信頼しました。そしてマリアは自分自身の役割を果たすために必死でした。名誉や地位はもちろん、ある意味では婚約者ヨセフさえも捨てて、神様の御言葉を信頼したのです。そのことに対する神様の配慮が「主があなたと共におられる」というみ言葉です。アリアを根底から支え、このみ言葉のゆえに「お言葉どおり、この身になりますように」と告白できたのです。
12月10日の読売新聞に次のような記事が目にとまりました。なんと故郷の同じ村の子の作文だったからです。「南阿蘇村」とみた瞬間に読み始めました。そして感動したのです。記事は以下のようなものです。
生まれつき左足がなく、義足をつけて生活している熊本県南阿蘇村立久木野小4年、藤崎美夏さん(10)の作文が、障害者週間(3~9日)にちなんで内閣府が募集した「心の輪を広げる体験作文」の小学生部門で、総理大臣賞に選ばれた。
◆「気持ちを伝えたい」…藤崎未夏(全文)◆
私は、生まれつき左足がなくて、義足をつけています。学校生活の中で、足がいたい時やプールの時など義足をはずす時があります。
四月になり、一年生が入って来ました。一年生は、まだ入って来たばかりで、私の事を知りませんでした。
五月に運動会の練習が始まりました。体育館での練習の時、半そで半ズボンにはだしでダンスの練習をしていました。半ズボンだったので、義足をはめた足が目立っていました。その時、一年生が何人か集まって、「にせ物の足だ」と言いました。私は、すごくいやでした。今までも、同じような事を言われてきたからです。だから、いつも足が見えないように、長ズボンばかり着ていました。そして、いろいろ言われるのがこわくて、にげるように義足をかくしていました。本当は、何を言われても気にせずに、どうどうとしていたいと思っていたけど、その勇気がありませんでした。だから「にせ物の足」と言われた時も、がまんしていました。
授業が終わり、担任の先生に相談しました。先生は、「一年生に足の事を話してみようか」と言いました。私は、みんなの前で話せるか、自信がなくてまよっていると、先生が、「話してみようよ」とはげましてくれました。
その夜、私は一年生に話す文を考えました。内容は、「どうして足がないのか」とか、「みんなと同じことが出来る事」とか、「義足をはめた時は、どんな感じなのか」など、一年生にも分かるように書きました。
一年生教室に話しに行きました。三人の友達が、一しょに来てくれました。一年生は、私の話しを、「すごい。」と言って聞いていました。その後、みんなの前で義足をはずした姿を見せました。一年生は、びっくりした様子で私を見ていました。その時私は、「やっぱりここでやめようかな」と思いました。でも私は、勇気を出して見せたり、質問をうけたりしました。その質問は、1「走っている時義足は、はずれないの」と2「手じゅつをする時は、いたくないの」などの質問です。その時私は、こう答えました。1つ目は、「ゴムみたいな所がすべり止めになるから、はずれません」と答え2つ目は、「ねむっているから、いたくないです」と答えました。
一年生に、義足の事を分かってもらうために、話をして、いやだった事とか、分かってほしいこととか、自分の気持を伝えられたし、一年生の気持ちもよく分かったのでよかったです。これからは、「にせ物の足」と言われないと思うと「ホッ」としました。
勇気を出して話をしたことで、少しずつ自分の気持ちが変わりました。いやだった半ズボンやスカートがいやじゃなくなり、どうどうとできるようになりました。
今では、一年生とも仲良く遊んだりしています。だれも「にせ物の足」と言わなくなりました。
先生や友達から、勇気をもらって、自分の気持ちを一年生に伝えられました。ありがとうございました。これから、新一年生や新しい友達と出会った時は、勇気を出してどうどうと、自分の気持ちを伝えたいです。
本当の自分を見つめ、自分を受け取ったこの少女は、自分自身に「YES」と言えました。その背後には、両親、先生、そして友達の支えがあったのです。その背後にある言葉にならない思いに彼女は支えられていたのです。
今日はクリスマスです。この出来事は困難、試練に翻弄される若い夫婦の物語です。しかし、ここには神様がいてくださり、守っておられます。
自分の人生に「YES」といえる場所は、神様が共にいてくださるところです。クリスマスの夜、あなたにもきっと神様のみ言葉が聞こえてきます。「主が共にいてくださいます」そして「あなたが必要です」と。
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