ある新聞のインタビューに、脚本家の倉本聰さんの記事が出ていました。神学生の頃はじまった北海道富良野を舞台にした「北の国から」を熱心に追い続けた記憶があります。書かれたものを全部買い求め、全集まで買いあさり、読みふけったことを懐かしく思います。
インタビューでは最後に「創作活動にご自身を突き動かしているものは」と聞かれていました。その答えをみてビックリでした。倉本聰さんは「神様でしょうか」と答えておられるのです。続けて「わけのわからない、サムシンググレートな力。物を作る人間にはふっと神様が降りてきてくれる瞬間があるような気がします」と。これは少しですが共感しました。倉本聰さんのような創作活動の中での言葉なので、きっとそのような瞬間があるのだと思います。しかし、自費出版の本を書いたり、絵本を執筆したり、コンサートの物語を執筆するときも「ふっと神様が降りてきてくれる瞬間」を感じるからです。説教をつくるときも、そんな感じを受けることがあります。しかし、それを感じられないことが多いのはなぜでしょうか。
倉本聰さんは続けてこのように言われています。「でも、その前に技術は磨いておかなければいけません。ひらめいたときに、それを具体化する能力を技術として持っていないといけないでしょうね」と。神様がみ言葉を与えてくださった瞬間にそれを受け止め「具体化する能力と技術」が必要なのです。
今日も教会礼拝で説教が語られています。すべての説教は神様が与えてくださったみ言葉が降りてきたものです。すべての牧師にきっと降りてきているみ言葉があります。それをどこまで「具体化」できたでしょうか。「具体化」することで、礼拝に参加した方々の癒しとなったでしょうか。すべての説教が「具体化」されていることを祈ります。