ヨハネ 11:35 イエスは涙を流された。
聖書では、イエス様が感情をあらわにされた記事はごくわずかです。「憤り」「涙を流された」くらいでしょうか。イエス様は、ラザロという兄弟の死に出会われます。ここで「死と復活」についての有名な御言葉が語られるのです。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」と。また「生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」と。このことを受け入れない人々に対して「涙を流された」のです。いったいどんな思いがそこにあったのでしょうか。
「女子高生メール術が成功を呼ぶ」という記事を読みました。そのメール術とは「顔文字」です。いまでは当たり前に使われていますが、現代の立派なコミュニケーションツールになっています。「顔文字」とは、人間の顔をかたどった文字です。例えは(>_<)(・_;)。これは、人の感情や思っていることを伝えるために女子高生が発明したものです。ところがこれは、「全世界に共通する言語」と言われています。文字だけのテキストだけではわからない思いや感情を伝え、円滑なコミュニケーションをとる方法と考えられているのです。つまり、どのように思い、感じているかがわかるというのです。ここまでしなければ相手の感情がわからない時代になったのでしょう。しかし、思いを伝える努力をしようというのはわかります。
イエス様がどのような思いや感情を持っておられたか、聖書で絵文字はでてきません。「イエス様が笑った」という箇所も一つもありません。しかし、「涙を流された」という一句に、私たちは神様の御心を読みとらねばならないのです。相手の話すこと、書くことを注意深く見ていく。これもコミュニケーションのひとつです。相手を思いやる。その思いさえあれば絵文字は必要ないかもしれません。
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