「宣教のバランス」ということを考えてみました。いまの教会の体制や能力と、宣教する場のバランスがとれているかということです。もしかすると、そのバランスに間違いがあって「空を打つ拳闘」をしているのかもしれないと思ったのです。
ある居酒屋に8名で食事にいきました。まず飲み物を注文し、いくつかの料理を頼みました。さすがに飲み物と突き出しはすぐにでてきました。ところが、そのあとが来ないのです。刺身、焼き魚、串焼きを注文しました。その一品の料理がきたのは注文して1時間後でした。まあ、流行っている店なのだろうと自分たちを慰めながら、次の一品はさらに1時間後。それまでも「早く出せるものは何」と聞いて注文しても、ぜんぜん来なかったのです。
一体どうなっているのかと怒りが頂点に達しようとした時のことでした。一人の牧師が次のように言ったのです。「きっと、この店の広さ・収容客の人数と、調理場の能力のバランスがあってないのだね」と。確かに調べてみると、客席は複数階にまたがっていても、調理場は1階にしかなく、しかも狭いことがわかりました。調理人も一人で助手が2人いるようだけど、3人がはいれるような調理場ではなかったのです。「これじゃしかたないな」と妙に納得してしまったのです。そのとき、ふと「宣教のバランス」ということを考えました。
私たちの教会は、あまりにも広い宣教の場を想定しているが、教会・働き手の能力とのバランスを考えてきたでしょうか。やみくもに「数打てば当たる」とか「いつかは芽がでる」と思っていないでしょうか。もしくは、初めから諦めているか。パウロはコリントの信徒に「わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません」といっています。宣教のバランスを考え、ポイントをしぼり、なすべき宣教を見つけ出していくことが求められているように思えます。教会の中に宣教者を増やさない限り、宣教の拡大・実りはないと思いますが・・。