「携帯電話やパソコン世代の若い人は会話が少ない。相手の声のトーン、間(ま)で会話に体温を感じますよね。それを察知するアンテナが、なくなっていると思います」というのは、日テレ学院長で元アナウンサーの石川牧子さんの言葉です。ネットニュースで読んで、なるほどだなと思いました。
そのニュースは続けて「たとえば、部下が風邪で休んだとする。今の上司は、『何で休んだんだ!』をグッとこらえ、言いたいことの説明から入らないといけない。『どうしたんだ? 大変だったな、大丈夫か?』そしてようやく、『自分の体調管理をきちんとしないとみんなに迷惑をかけるよ、俺もお前がいなくて仕事が大変だったよ』となるわけです。ツッコミ、ボケ、まとめを上司が1人でやらなきゃならない。でないと誤解を生み、気持ちが伝わらないので」と書いてありました。伝えることの難しさを感じました。
牧師の礼拝説教ではどうでしょうか。最近は土日が自分の時間として使えますので、これまでの説教を聞き返しています。200本近くありますが、反省点ばかりが目立ちます。しかし、一つだけ感心することも見つけました。それは聖書の言葉を「教えよう」とせず「伝えよう」としていることがわかったのです。なんとかしてイエス様のみ言葉を伝えたい。そのためにはどのような内容にするのか、話し方はどうか、間の取り方を考えているなとか工夫しているのがわかったのです。
説教は聖書の言葉を教えるものではありません。しかしどうもこの教える型説教が多いように思います。礼拝に参加している方々は、今日のみ言葉をどう生きて行くか、どんな慰めがいただけるか、福音は何かを求めておられます。教えられるみ言葉ではなく、伝えられるみ言葉がほしいと思います。(10.08.22)