聞きたくないおしゃべりを聞かされると、苦痛に感じます。言葉というか、声の暴力というものがあります。そんなときは、その場所から遠ざかるか、耳をふさげばいいのですが。それができない「密室」というところでなされると、もうどうしようもありません。
先週のことでした。たまには温泉でのんびりしようと思い、鬼怒川温泉にでかけました。さすがは鬼怒川温泉。山間の温泉は、緑と雨と風、ただそれだけでリラックスしました。足湯にもつかり、心身共にリフレッシュしたのです。しかし、帰りの特急電車のことでした。すぐ後ろの席に4名の中年の女性たちが乗ってこられました。この人たちがなんと大きな声ではしゃぎ始めたのです。それだけならよかったのですが、延々2時間あまりを大声で話していました。まわりの方々は寝ているふりをしておられました。まあ彼女たちにとって楽しい旅行だったのだろうと、微笑ましく考えてあげようと思っていたのです。ところが、2時間をずっと仕事場の同僚の悪口ばっかりだったのです。一人がいいだせば出るわ、出るわ。大声あげて。せっかく温泉に入ってリラックスしてきたのに、聞きたくない人の悪口を延々聞かされて、疲れが倍になったようでした。
他人の悪口を言って、自分のストレスは発散できるでしょうか。自分は悪くない、悪いのはあいつだとばっかり思っていたら、余計に疲れるようなきがします。聖書では、その人に批判すべきところがあったなら、二人きりのところで面と向かって忠告しなさいと書いてあります。お互い同じキリスト者として信頼関係のなかで話し合う時、はじめて赦し合い、和解ができると思います。権力のある人を後ろ盾をつけたり、その人のいないところでどんなに叫んでもストレスがたまるだけだと言えます。
さて、あの4人の女性たちはその後どうしているのでしょうか。せっかく温泉で癒された心身も、普段の生き方でまたストレスをもってしまうなら残念です。願わくは、赦し合い、認め合い、和解することでリフレッシュできればと祈ります。イエス様の十字架を思いつつ。