マルコ 14:29 するとペトロが、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言った。
イエス様は逮捕される前に、「あなたがたはみなわたしにつまずく」と弟子たちの離反を予告されています。弟子たちもみんなと同じで、自分のもとから散っていくと言われました。ペトロは「わたしはつまずきません」と言います。イエス様はそのペトロに「今夜、鶏が二度泣く前に、三度わたしのことを知らないという」と告げられました。ペトロは、わたしはみんなと違うと言いたかったのでしょう。しかし、結局みんなと同じになってしまいました。「みんな」の力に押し流されない「わたし」とは何かと思います。
ある大学に行動心理学の先生がおられます。先生は最近、大学のエレベーターのドアによく挟まるそうです。自分がのんびりしているのか、ドアが閉まる時に入ろうとするからか。その他の場所では挟まることはないが、大学のエレベータだけには挟まるというのです。行動心理学の先生ですから、興味をもって調査したそうです。すると、大学のエレベーターでは乗っている学生がドアの「開」というボタンを押さないことがわかりました。一般の場所では誰かが親切で「開」を押してくれています。ところが、学生はそれをやらない。そこでアンケート調査をした結果、なぜ「開」を押さないのか。その理由は「みんながやってないから」だそうです。小さい時からの教育で「みんな」が大切と教えられたのです。「みんながやるからやる」「みんながやらないからやらない」。行動の基準は自分ではなく「みんな」なのだそうです。
ペトロも「みんながつまずいても、わたしは・・・」と言いました。しかし「みんな」とおなじようにつまずき、イエス様をみ捨ててしまったのです。たとえ「みんなとは違う」といっていても、人間は流されていくのです。イエス様はすべてを知って、ペテロをみつめておられました。人は神様の前にたった一人で立たねばならないときがきます。そのとき「みんな」は通用しないのです。
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