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羽田空港で見つけたカツサンドです。「たいめいけん」といえば、これまでもハンバーグ弁当、オムライス弁当を紹介しました。そして今回は「カツサンド」です。
羽田空港には、たくさんの種類のカツサンドがうってあります。どれも美味しいですね。しかも私はカツよりもメンチカツ大好き人間なので、こちらを買いました。う~ん美味。ボリュームもあって、小腹がすいていたのでしっかり栄養補給になりました。
いつか、羽田空港のカツサンドを全種類ならべて食べ比べをしたいものです。
ガラテヤ 6:4 各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。
パウロは「信仰に基づいた助け合い」について語っています。その中で大切なことは「互いに重荷を担う」こと、「自分を吟味する」ことだと教えています。他者と比較するのでなく、奉仕の行いを自分自身で吟味すれば、その行いは神様の恵みに基づいていることがわかるというのです。すべては神様からいただく愛によって互いに仕えなさいと教えています。 ネットで「2度と行きたくないレストラン」アンケートがありました。いくつかの項目があり、上位からは「料理がまずい」「店が汚い」「トイレが汚い」があがっていました。しかし、ダントツで1位だったのは、「店員の態度が悪い」という項目でした。集計の結果、半数以上の人がこの項目にチェックしていました。ということは、料理よりも何よりもそこに働く「人」の問題なのでしょう。自分が客として迎えられているか、心地よく過ごすことができる配慮があるか。それらによって味も変わるのかもしれません。 パウロは「各自で、自分の行いを吟味してみなさい」と忠告しています。自分で自分を吟味することは大変難しいことです。大抵は自分には優しくありたいからです。しかし、すべての奉仕、働きの源には神様の愛がある。そのことに気づくことが大切なことなのです。「自分だけでなく、相手のことも考えない」とも、パウロは教えています。すべての働きの中で常に自分を吟味していきたいと思います。 <音声朝礼は「神様の色鉛筆」でどうぞ!>
ヘブライ 5:8 キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。
ヘブライ人への手紙は、冒頭に宛先も挨拶もない不思議な手紙です。筆者も特定はされていません。最初からいきなりキリスト論が語られているところも不思議です。本日の「多くの苦しみによって従順を学ばれた」とは、およそ神のみ子にはふさわしくない行為であっても、神様の御旨によって試練を経験し、従順を学ばれたということです。この従順のゆえに救いの源となったと言っています。 「私たちはキリストに、どこまで従順でいられるか」という説教を読みました。説教者は、教会に対して「あなたは従順か」と問うていました。この従順というのは何かと思います。みなが勝手に考え、文句をいい、反対しているとしたら、私たちは誰に従順に聞き従えばいいのか。キリスト者として従順というとき、まずは聖書に従順に聞き従うことです。み言葉の上に立った権威にも従順であることを求められています。そんなことをかんがえながら、教会における牧師や役員とは何かを思いめぐらしていました。 ヘブライ書の筆者は「キリストは肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、ご自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度ゆえに聞き入れられました」といいます。従順を学ぶ時の見本は、キリストにあります。そのキリストは私たちのために十字架に対しても従順であられたというのです。待降節をすごしているいま、み言葉に従順であることを考えてみる機会であればいいなと思います。 <音声朝礼は「神様の色鉛筆」でどうぞ!>
フィレモン 7 兄弟よ、わたしはあなたの愛から大きな喜びと慰めを得ました。聖なる者たちの心があなたのお蔭で元気づけられたからです。
パウロはフィレモンへの手紙の中でで、『キリスト・イエスの囚人』という言葉を2回使用しています。たぶんキリストにとらわれてしまったと言うことと、その点ではフィレモンもオネシモも同じだといいたいのでしょう。 フィレモンという人は、愛と信仰に満ちた人だったようです。パウロ自身がフィレモンの愛から、大きな喜びと慰めを得たと言っているのです。 さて、私たちはどうでしょうか。大きな喜びと慰めを与えるような信仰者でしょうか。私たちの存在がキリストを喜ばせるものかどうか点検してみる必要があります。しかし、「私はどうだろう」と思い巡らせてくださるだけで、主は喜んでくださると言えます。イエス様にあってわたしは誰だろうから、悔い改めは起こってくるのですから。
フィリピ 1:27 キリストの福音にふさわしい生活を送りなさい
「キリスト者はおとなしい方が多いですね」と言われてみたり、「キリスト者でも激しい方がおられるのですね」と言われてみたりします。さて私はどう見えているのでしょうか。 「キリストの福音にふさわしい生活」とパウロは語ります。それだけ聞けば、清らかな静かな生活のように聞こえてきます。私たちにとってキリストの福音という言葉が、とても耳ざわりがよい言葉だからです。しかし、パウロの表現はちょっと違うようです。「キリストの福音にふさわしい生活」とは、「福音の信仰のためにともに戦うこと」であり、「脅されてもたじろぐことのないこと」のようです。 福音の信仰のために静かに戦う人もいれば、激しく戦う人もいる。どっちにしてもキリスト者にとっては苦しむことも恵みのうちですから。大切なのは信じぬくことです。(本日は出張中のため音声朝礼はお休みです)
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