箴言 15:1 柔らかな応答は憤りを静め、傷つける言葉は怒りをあおる。
箴言15章はひきつづき生活の知恵、格言がかかれてあります。その中でも特徴的なことは3節です。「どこにも主の目は注がれ、善人をも悪人をも見ておられる」と教えています。人間はつねに神様との関係の中で生きているというのです。神様との関係のなかで、人と人の関係もまた与えられています。
「慇懃無礼」という言葉があります。表面の態度は丁寧だが、心の中では相手を見下し馬鹿にしていること。またはそういう行為と国語辞典にはかいてありました。ただこの言葉の本当の意味は何かを考えています。大企業などがクレーマーに対して謝罪を行う場合、行き過ぎてこのような状態に陥りやすいので注意が必要と言われます。また、個人の間ではプライドが高く尊大で自意識過剰な人間が、丁寧な口調や文体で他人に対し議論や謝罪を行う場合に、このような態度が見られる場があるとも。意図的に行うものと、無意識に行うものがおり、判断に苦しむ行為であるというのが正解のようです。人間関係によって、無礼になったり丁寧になったりするのでしょう。この言葉は関係の上になりたっているものです。
箴言は「柔らかな応答は憤りを静め」と言っています。大切なことは「応答」ということです。言葉が慇懃無礼になるのは一方的だからです。「傷つける言葉は怒りをあおる」からもわかるように、そのような言葉は一方的なものなのです。イエス様は多くの人々と対話をされました。応答しておられます。言葉の中心に信仰をもって応答することが求められているのかもしれません。
<音声朝礼は「神様の色鉛筆」でどうぞ!>
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