東京都にある高校から講演依頼をうけました。高校の人権週間で広島(ヒロシマ)の話をしてほしいとのことでした。とても珍しい依頼で驚きました。なぜなら、キリスト教の牧師が普通高校に呼ばれるなんてありえないことだと思ったのです。広島で私の話を聞かれた方が推薦してくださったというのです。
ところが先週、丁寧にお断りの電話がかかってきました。「職員会議で協議した結果、立野さんが牧師であるということで、高校としては問題があるという意見だされました。事務局で働いておられると聞いていたので事務員さんとばかり勘違いしていました」とのこと。やっぱりそうだなと思いました。こんなことは何回も経験があるので「またか」と思ってしまいました。宗教を抜きにした人権なんてあるのでしょうかねえ~なんておもいながら。
しかし、ちょっと落ち着いて考えてみると、悲しくなってきました。教育者がそれでいいのだろうかと。普通高校だから宗教はだめ、牧師だから講演はお願いできない。ということに悲しくなったのではありません。なぜ、先生方がまず話を聞いてくださらないのか。牧師とはいえ、ヒロシマの何を語っているのか。どうして推薦する人がおられたのか。まず話を聞いてみるということは考えなかったのだろうかと。はじめから牧師だからということで判断するのが教育者なのか。先生たちがまず話を聞かれて判断してほしかったと。私にはヒロシマで出会った人たちの言葉を伝える責任があるので、なおさら悲しいなと思ってしまいました。
これからも12年間で出会った「ヒロシマ」を語り続けていきたいと思っています。牧師が語るわけですからキリスト教を土台としてしか語ることはできません。ただ、それを判断するのはそこで聞く生徒でいいのじゃないかと思うのです。生徒を信頼して、生徒にいろいろな角度から話をきいて判断していただくことで十分なのではないかと。そうはいっても普通高校という壁のことはわかるのですが。