毎月「ひかりの子」(日本カトリック幼稚園連盟)という新聞をいただいています。数年前に「ティータイム」という欄にエッセイを寄稿させていただいた関係で、送っていただくようになったのです。毎月送られてくるこの新聞が楽しみでしかたありません。内容がとても充実していて、子どもたちと教師の暖かいやり取りをうかがえるからです。
今月号のティータイムには「電車内の子ども・三態」として、村石昭三氏(国立国語研究所名誉所員)が電車の中での親子エピソードを書いておられました。その中に次のようなものがあります。「高田の馬場駅から子連れ二人の母子が乗る。駅を発車して落ち着いたところで、上のお姉ちゃんが母に尋ねるのだった。子:ママ、このあとはどこ?母:池袋よ。子:池袋のあとはどこ?母:大塚よ。子:大塚のあとはどこ?母:巣鴨。子:巣鴨のあとはどこ?母:もうない!子:もうない?どうして?母:お母さん眠くなったの。『このあと』とは『先』に代わる時の経過に添うものだが、お母さんの「もうない」には、私も驚いたが、子どもはもっと驚いたろう。子どもは時の流れの先に想いをゆだねながら問うているに違いない。それが楽しみなのだが、「もうない」とはね。」
笑い転げて読んだのは私だけではないと思います。こんな会話を聞きもらさずに聞いておられる先生もさぞ楽しいだろうなと思います。先生は続けて「でもお母さん、眠くなったのだから、マ、仕方ないか。」と。なんて暖かい文書なのだろうかと思いました。
神様もきっと私たちの会話を暖かい心で聞いておられると思います。母親の言葉に「眠いとはけしからん」なんて言われないでしょう。小さな言葉であってもそれを暖かく受け取る余裕が持てればと思います。神様も私たちの毎日の言葉を聞いておられるのですから。