マルコ 10:45 人の子は仕えられるためでなく仕えるために
52回目の誕生日を迎えました。この日になると、夏休みが終わるということばっかりが気がかりで、自分の誕生日の喜びの半分はそっちに持って行かれました。誕生会を開いても「宿題があるから」と断られていたのを思い出します。そんなときには、将来偉くなって総理大臣になったら夏休みの終わりを変更してやると小さいながらも思っていました。偉くなると何でもできると思っていたのでしょうか。恥ずかしい限りですね。
弟子のヤコブとヨハネは、イエス様が神の国で栄光を受けるとき、右と左に座らせてくださいと願います。他の弟子たちは「出し抜かれた」と感じたようです。この願いに他の10人は腹を立てたと記されています。ということは、みな偉くなりたいと考えていたのでしょう。権力がほしかったのかもしれません。イエス様はそのような弟子たちに「偉くなりたいものは、皆に仕えるものとなれ」と言われました。また「すべての人の僕となれ」と。本当の偉さとは「仕える」ことができるかということです。
「母からの教え」というエッセイに、ある企業の管理職の方が次のように書いていました。あるとき、母親が五右衛門風呂の準備をしていた。水道がまだ整備されてないころで、水汲みから沸かすまでは重労働。みかねて母に「手伝ってやろうか」と声をかけた。すると母から「いらん!」と怒られたそうです。手伝ってもらいたいけれど「やろうか」ではしてほしくない。それは大きなお世話だ。お前が「手伝わせてほしい」といったらどれだけうれしいか。と諭してくれたそうです。
イエス様は「人の子は仕えられるためでなく仕えるために」と言われました。「仕えるものになる」ことは心の持ち方が大事です。「やろうか」はどうみても上から目線の言葉です。上からでなく、共に生きるものとしての立場から、上も下もなく共にということから始めたいと思います。家族の働きの中でも「させてほしい」を実現していきましょう。
<音声朝礼拝は「神様の色鉛筆」でどうぞ!>
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