マルコ 4:24 「何を聞いているかに注意しなさい」
礼拝説教も「対話」であるということをききました。外からみると、牧師が一方的に話しているように見えます。しかし、説教は神様の語りかけに、そこで聞く信徒が自分の中で問をおこしている状態です。その問いに答えるのが、イエス様のみ言葉なのです。礼拝説教でその時起こっていることは、神様と自分との対話です。対話があるとき、福音が伝えられていくのです。
イエス様は、人々の聞く力に応じてたくさんの「たとえ話」をされました。聞く人が何を求めているかを知っておられ、小さなことにまで、イエスさまの目が注がれているのかと感動することがあります。本日のみ言葉は「ともし火」と「秤」のたとえを語られたあとの言葉です。生活の中で使用している、ごくあたりまえの道具をつかった話です。「灯を持ってくるのは、燭台の上に置くため」。その通りですが、ここから何を聞きとるかが大切なことです。
最近、気がついたことの一つに「教える人は聞かない?」ということがあります。教える人というのは、教会の牧師、学校の先生、趣味の教室の先生などです。しかし、よく考えてみると誰でもが教える人になりえると言えます。親という立場も子どもに教えるという存在になりますし、バイトの先輩や兄弟姉妹でもそのような立場になります。ただ、気がついたことは「教える」ということから物事を始めると「聞くことができない」状況に陥ると思うのです。先生という存在は「まず、わたしの話を黙って聞きなさい」というものです。私は教える人、あなたは教えられる人という立場を作り上げます。そこにいる人が何を考え、何を求めているかを聞いて(受けとめ)、それから教えることが本来の姿です。それを忘れるから聞いてもらえないことがおこっているかもしれません。
イエス様は「何を聞いているかに注意しなさい」と言われました。教える者も「何を聞いているか」から発想し、教えるのではなく伝えるという立場にたつことが大切です。まずは聞くことから始めなければ、教えることはできません。その人が何を考え、何を聞きたいかがわからない限り、たとえ教えたとしても伝わって行かないのです。イエス様のみ言葉は一方的ではなかったのです。応答という素晴らしいやりとりがつねにありました。
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