「自分の居場所はどこだろう。ふと考えることがあります」というメールをいただきました。自分の居場所を知っている、また自分の居場所があるということはとても幸せなことだと思います。自分の居場所が見つけられずに悩み苦しんでいる方がとても多いのが現代社会です。教会にはたくさんの居場所が用意されています。礼拝での空席があったとしても、それはまだ見ぬ、神様に招かれている方の指定席です。やがてそこに招かれて座る方がおられるのです。居場所は教会にあるのです。
もう一つの居場所もあります。それは召天されてからの居場所です。大江教会の宝物の一つは「納骨堂」です。いま清らかに整えられています。毎朝この納骨堂でお祈りすることが楽しい毎日です。お祈りの後、ボックスにある写真を一人一人眺めています。時には叱咤激励、ときには励まし、そしていつも「共に祈っていますよ」という声を聴いています。イエス様と先に召された信仰者の先輩方との交わりのひとときです。
先日のことでした。記念会のときある兄が「よく見てみると、納骨ボックスの位置に大きな意味があるようだ」と言われました。どこに居場所をおいているかです。よく見ていますと、本当にその関係がわかってきます。あるご夫婦は横並びです。しかしあるご夫婦は角を境にご主人と奥様、そして子供さんが向か合っているように場所があります。ある方は恩師の下に、ある方は横にと。納骨の場所を決められるとき、その居場所をよく考えられたのだと思います。その方の信仰の証がみえてきます。
イエス様「居場所を用意する」と約束してくださいました。神様のところに私たちの居場所はあります。そこは予約席であり指定席です。天に召されてどこに行こうかと考え悩まなくていいのです。場所はちゃんと用意してくださっています。あとはこの世に生きる私たちが納骨堂の位置を見ながら、その方に与えられた信仰を思い起こせばよいのです。居場所はある。安心してこの人生を生きてまいりましょう。
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