ルカ 8:17 隠れているもので、あらわにならないものはなく・・
小さい頃、料理中のなべの蓋をあけては母に怒られていたことを思い出します。何回怒られても繰り返し覗いていました。それは、中になにがあるかを知りたくてたまらなかったのです。美味しい臭いはするが、それがどんなもので、何なのか。隠されていると見たくてしょうがなかったのでしょう。母も隠していたのではないでしょうが、どうしても見てみたかったのです。そんなことを最近思い出しました。
今日の聖書の言葉は、イエス様の教えの一つです。はじまりは「ともし火をともして、それを器で覆い隠したり・・しない」という話の中にあります。ともし火は何のためにあるのかをきちんと考えなさいと教えられます。また、み言葉の光は隠されたままにはなく、かならず光輝くのだというのです。悪いことを影でやっても公にされると読む人ともいるかもしれません。結局はすべてのことは神様によって公にされるということです。どんなに人からは隠れて、うまくやったように思っても神様の目をごまかすことはできません。むしろ神様によってそのことは明らかにされる。それを知っているかいないかは大きな問題です。
ある本で面白い話をよみました。ニューヨークの工事現場の塀にはいくつも穴があいているのだそうです。しかもわざとあけてあるそうです。理由は中で何が行われているか興味があり、穴がない塀はすべて壊されて中がみえるようになるからです。そこで始めから穴をあけて中を見せることにしたというのです。隠れているものを人は見たくなるのでしょう。はじめから人に見せてしまえば何でもないことなのです。
さて、私たちの教会はどうでしょうか。教会で語られる福音を隠したりしてないでしょうか。いや、教会の塀をこわしてまで覗きたいものとして捉えているでしょうか。私たちに与えられている神様のみ言葉の価値をも一度再確認したいと思います。「隠れているもので、あらわにならないものはない」のに、こんな素晴らしい宝を隠しているのはいったい誰でしょうか。教会はもっと大胆に福音を語り、もっと大胆に教会の中を公に表してもいいと考えています。
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