マルコ 8:34 わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
熊本に帰ってきて久しぶりに「熊本弁」を聞いています。自分では分かったつもりでも、結構わからない言葉もあります。熊本にしかない表現もあります。谷口先生が教えてくださった「脳のうっだす」という言葉もそうです。この言葉は熊本にいるからわかる表現です。人はきっとその人しかわからない言葉をもっています。その言葉はその人自身でもあります。イエス様が語られる言葉も、イエス様しか言えない言葉です。
イエス様は、死と復活を預言したあと、自分をわきへ寄せていさめはじめたペトロを叱りつけられます。十字架へ進む道を邪魔したからです。そのあとにイエス様に従う道を具体的に示されたのが「自分を捨て、自分の十字架を背負って」という呼びかけでした。イエス様と共に歩むようにと語りかけられたのです。イエス様なりの表現と招きです。十字架というのは死を意味します。そうなると、自分の十字架とは、自分の死を背負ってということになります。私たちはイエス様に従うとき、それはすべてを背負って従うのです。そのすべてには、その人にしかわからない死もあるのです。
読売新聞に、女優・吉永小百合さんの対談のことが書かれていました。彼女は「どんなときに、もう若くはないと感じを抱きましたか」という質問に、「涙がまっすぐに流れないで、横に走ったときです」と答えたというのです。これを聞いて、ある歌人の方が「女優じゃなければできない表現だろう」と言っていました。「女優でなければできない表現」というところに「ピン」ときました。なぜ女優でなければできないのか、それは経験、知識、与えられた賜物から言葉が発せられるからです。だとすると、私にも、私にしかできない表現というものがあります。しかしその表現によって、その人のすべてが見えてしまうということもあります。
イエス様は「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われました。イエス様でなければできない表現があります。「わたしに従いなさい」という御言葉もその一つです。神様だから言える言葉の中に、私たちの命を支えるものがあります。イエス様がつねに語りかけてくださるみ言葉はすべて、私たちの命のためです。だからこそ「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言えるのです。