ルカ 2:7 宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
旧約聖書のアブラハム物語には、神様が「あなたはどこにいるのか」という問いかけがでてきます。アブラハムは「はい、ここにります」と答えています。この箇所は私にとって大変大切な個所です。自分の居場所がどこかをはっきり神様に申し述べることができる。それはすごいことだと思うのです。大抵は自分はどこにいるのかわかりません。自分の居場所を必死に探しているようにも思います。そんな時に、自分の居場所は神様の前であるというアブラハムの信仰に驚かされるのです。
クリスマスで有名な物語は、イエス様が「馬小屋」でお生まれになったということです。しかし聖書には馬小屋という言葉はありません。そこには家畜小屋でお生まれになったと書かれてあります。どちらにせよ、どこで生まれたかが重要なのではなく、なぜそこで生まれなければならなかったかです。ルカによる福音書によれば「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」からでした。場所がなかったということは大変つらいことでもあります。本当に場所がなかったのか。クリスマスの記事は「神様が共にいます」がテーマですから、宿屋にはなくても、「馬小屋」(家畜小屋)こそが、イエス様の場所としてあったのです。神様はそこで共におられたという物語になっています。
東京に単身赴任をしていたときのことでした。月に1回は広島の家に帰ることができました。しかし、そこにはすでに食卓にイスがないので、自分の居場所がここにはもうないのかなと思っていました。あるときの帰宅のことでした。その頃の家族ブームは「茶碗蒸し」だったそうで、器を購入したようでした。家族で嬉しそうにそれを開封している時に、たまたまそこに居合わせたのです。私の関心は「いくつ買ったのか」ということでした。私を入れて5人家族ですが、4つだったらどうしようと思ったのです。さすがにちゃんと「5個」ありました。その時に、自分の居場所がここにあること、居場所を用意されていることの喜びを感じたのです。
ルカによる福音書は「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」と記しています。これだけ読めば悲しい出来事です。しかし神様は場所を家畜小屋に用意してくださっている。どんなに苦しい試練の中にあっても、ちゃんとそれを避ける場所も用意してくださっているのです今日の働きでの場所も神様がその任をはたすために用意してくださっている場所です。与えられた場所に感謝して、今日も過ごしてまいりましょう。神様は共におられます。