ガラテヤ 2;20 生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。
今週(28日~30日)は、復興アルバムプロジェクト贈呈のために宮城県石巻にきています。改めて、現地で活動していた頃の朝礼拝を思い出しています。
東日本大震災救援で一番感じたことは、「私たちは何もすることができない」という失望でした。いったい何を自分たちはするのか。こんなおおきな苦しみの前に、自分たちは何もできないという焦りが常にありました。しかし、そのような中で出会ったことは、自分たちは何もできないけれど、キリストは生きておられるという実感でした。どんなに落ち込んだとしても先回りしておられるキリストがおられると言う不思議な実感でした。
パウロは、自分の内に生きておられるキリストを強調しています。キリスト者として生きる者は、徹底的にキリストを受け入れる者です。そして、キリストを徹底的に受け入れるとは、キリストが私を徹底的に支配されるということです。私たちは、信仰によってそれに従うのだというのです。ですから、パウロの行いはすべてキリストからでているものであり、キリストの業であるのです。
東日本大震災のときは、被災者のお宅を一軒一軒訪問していました。そのとき「何かお助けできるものはありませんか」と声をかけていました。大抵の方は「私たちより困っている人のところへ行ってください」と言われます。しかし、そこでは助けるものが何もないかというと、そうではありません。そんなときは「助けるものはなくてもお話をきかせてください」とお友達になっていただきました。その時の被災者に必要なものは「家と仕事」でした。その支援は大きすぎてルーテルではどうすることもできません。しかし被災者の方が「ルーテルさんがくると元気になるよ」「ルーテルさん何回もやってきてね」と言われる事が、とても感謝でした。その中の一人、被災者のおじいさんがこう言ってくれました。「あんたらはキリストさんをしょってるのだね」と。その一言がどんなにうれしかったことか。
パウロは「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられる」と教えています。宣教に派遣される弟子たちも、みなキリストが内に生きています。私たちが支援活動をさせていただくとき、そこにはキリストがおられます。背中のキリストが、私たちの支援を支え、育み、生かしてくださっているのです。