使徒 2:42 彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。
あるとき教会に一人の方が相談にこられました。その内容は「ウソをつくのをやめたいのですが、どうすればウソをつかなくなりますか」というものでした。一瞬驚きました。自分でウソをつかなくすればいいだけですから。しかし、その方はウソをつかない努力はするのですが、どうしてもできないといわれるのです。その話を聞きながら、これはウソをつくことがこの人の習慣になっているのだと思いました。習慣とは「繰り返して行うこと」であり「同じ状況のもとで繰り返された行動が、状況に応じて安定化し、自動化されて行われること」です。最近では「生活習慣病」という言葉もあります。知らないうちに身についている悪い習慣があります。「うそをつく」「落ち込む」「マイナス思考」「自己中心」。これが習慣になると、そこから抜け出せなくなってしまいます。一方良い習慣を持つと、その人の人生を平安や安定に導いてくれます。いちど自分がどんな習慣に縛られているかを点検してみるのもいいものです。
イエス様が天に帰られたあと、聖霊降臨という出来事おこります。そして教会が誕生しました。最初の教会にとって大切にされてきたことは4つでした。「使徒の教え」「交わり」「聖さん式・食事」「祈り」でした。これはいまの教会の礼拝でもすべて行われていることです。大江教会でも毎週礼拝後に共に食事会をしています。一緒に食べることは、ただ食べるということだけでなく「共に食する」という大切な時間であり、その交わりの中に喜び、祝福があります。最初の教会の4つの事柄は習慣となり、それが現代の教会まで引き継がれています。よき習慣は継承されていくのです。
折り紙教室の先生から教えていただいたことがあります。それは「習慣は紙の折り目のようなもの。一度ついたらとれない」ということでした。この「紙の折り目」という表現は素晴らしいなと思います。またよく言い当てていると思います。両端をきちんと揃えて、意識的に折ったものの折り目は美しいものです。折り紙などの美しさもそこにあります。しかし、いい加減に折ったもの、また仕方なく折られたものの折り目からは美しいという感じは受けません。
しかし問題は、一度ついてしまった折り目をもとに戻すことは大変ということです。むしろ無理に近いかもしれません。強制的にアイロンでもかけないとだめですが、それでも無駄なようです。そう思うと、意識的につけた習慣は人から見て美しいものがたくさんあります。たとえば挨拶、礼儀など。そうでないものは、いがいと見たくないものが多いようです。
最初の教会は「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ること」を習慣としました。そこに神様が共にいてくださるということです。これは意識的につけられた習慣だと思います。毎朝の礼拝に出席することも、共に食事をすることも、今日も神様と共にあるという習慣なのです。