マタイ 6:28 なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。
子どもがまだ小さいときのことでした。何かして怒られて泣いているのですが、そのうちになんで泣いているのかわからなくなる時がありました。もういいからと慰めて、泣き止まない。そのうちに「どうして泣いているの」と聞いても「わからん」と答える。自分はいま悲しいのだという「ありのまま」を受け入れればいいのにと思っていました。いまは悲しいと受け入れることができれば、泣き止む道も見えてくると思います。
今日の聖書の言葉は、イエス様の山上の説教の中で語られた言葉です。「思い悩むな」という言葉から続く教えです。イエス様は、人が思い悩むとき自分の姿はどうかと問われます。私たちは自分自身が見えない存在です。自分の目の中に余計な「思い悩み」を持っています。しかし、それが何かわかりません。「思い悩み」ばかりを見てしまいます。まず自分の余計な「思い悩み」をとりのぞくべきであると教えられました。そして最後に野の花をみよと言われたのです。野の花はそこで咲いているだけである。ありのままを教えられたと言えます。
利休七則に、もう一つ心にのこる言葉があります。それは「花は野にあるように」です。何回よんでも深い言葉です。野に「あるがまま」ではなく、「あるように」というところに感銘をうけます。これは野に花が咲いている状態がいまここにあり、それを感じさせるように生けることです。つまり野に花がさいていることを再現しなさというのではありません。たった一輪の花でさえも、野に咲いているように表現できるならば「あるように」ができます。ただそのように生けるには、余計な「モノ」を取り除かねばなりません。
イエス様は「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。」と言われます。本来の姿である「あるように」を知っておられます。そして、そのままで生かされている喜びを教えてくださいます。私たちも、そのまま罪赦され、愛されています。余計な考えを捨て、自分自身を省みて「あるように」を考えながらすごしましょう。
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