2コリ 5:15 生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。
牧師候補生の面接では、まず召命観について聞かれます。簡単にいえば「あなたはなぜ牧師になるのか」ということです。しかし、それだけではありません。本当は「神様から牧師になるためのどんな招きをうけましたか」ということです。この微妙な違いは卒業が近くなると変わってくるように思います。初めの頃は「自分が、自分が」と語られるのですが、「主が、主が」となってくるからです。私が中心でなく、キリストが中心になったときに牧師として宣教に立つ準備完了となるわけです。
パウロは自己推薦と誇りの問題について再び語ります。パウロが語る福音は、自己推薦ではなく神様と人々の和解ということです。その務めを果たしてきたといいます。また誇りというのは、外面的なものでなく内面的なものであり、その人の内面になにがあるかを問われるとのべています。自分自身のために生きる人が多い中で、自分の救いのために死んでくださった方がおられる。そのことを思い、その方のために新しい生き方をしていこうと励ましています。その方こそキリストであると言うのです。
ある定例会で「マザー・テレサのスピリットとは?」という講演がありました。「マザー・テレサとその世界」という映画を製作した千葉茂樹監督をお招きしての会でした。監督からマザーの普段の様子やエピソードなどを聞き、そのスピリットの中心にある「キリストの渇き」を知ることができました。またマザー・テレサの十字架には「我渇く」という、キリストの十字架上の言葉が刻まれていることも知りました。エピソードの一つに、映画スタッフ通訳者とマザーの会話を教えてくださいました。その人はインドの方で、熱狂的な共産主義者、無神論者でした。マザーとの出会いから「わたしはどうしたら神様を信じることができますか」とマザーに聞いたそうです。するとマザーは「いまからあなたのために祈ります」と答えられ、さっそく祈りだしたというのです。マザーの中にキリストが生きておられると感じるエピソードでした。
パウロは「自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きる」といいます。パウロの内面にはキリストが生きています。そのキリストがパウロの内面にあって福音を証することへと駆り立てています。自分の内面に何が生きているか、問われているようです。
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