マタイ 26:26 イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」
「聖書の成り立ちを教えてください」と教会にこられた方がありました。その方が言われるには「聖書はイエスという人間を神様にするために書かれたのでしょう」とのことでした。神格化のために書かれたと思われたのでしょう。しかし、聖書は初めからイエスを神格化するために書かれたものではないこと。そして基本はイエス様が語られた「み言葉」だとお答えしました。人々の中にのこったみ言葉から聖書は成立していったのだと話しました。
初代教会は、そのはじめから共同の食事を大切にしてきました。それは、イエス様との過越しの食事を想い出すためでした。また、それを大切な儀式へと発展させていきました。その食事に与ることで、イエス様との霊的なつながりを繰り返し体験していたのかもしれません。過越しの食事で重要なことはイエス様の言葉です。パンを割いて言われた「これはわたしの体である」は、弟子たちにどんな衝撃をもって受け取られたことでしょうか。
印象に残る言葉というのがあります。しかし、よい印象として残ることばと、そうでない言葉があります。寅さんのように「それをいっちゃ~おしまいだよ」と笑って流せればいいのですが。「それだけは言ってはいけない」と言う言葉は、心に傷として深くのこります。また「その言葉がほしかった」というもの「これだけは忘れられない」という言葉もあります。それらは人に勇気や元気を与えます。イエス様の言葉は「これだけは忘れることができない」という言葉でした。最初の福音書を書いたマルコは、そんな言葉を集めて一つの書物にしたのでしょう。今日のみ言葉は、その中でも決して忘れることのできない言葉として私たちに伝えられています。
イエス様はパンを取り「取って食べなさい。これはわたしの体である」と言われました。その時、弟子たちはイエス様の言葉の意味がどれほど理解できていたでしょうか。しかし、この言葉と出来事は、二千年後の現在にいたるまで繰り返し礼拝で再現されています。イエス様の体をいただく。十字架の前におこなわれた過越しの食事の意味がわかるのは、十字架のあとのことでした。
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