マタイ 26:42父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。
本日は広島原爆祈念式が行われました。14年間にそこに身を置き生活した者として、熊本でその朝を迎えることに少し不思議な気持ちがしています。熊本でも8時15分にサイレンが鳴りました。毎年この時間は広島教会で祈りをささげていました。そして7日に、人が少なくなった原爆供養塔で祈ってきました。しかし、どこであれイエス様が言われた「平和を実現する人々は幸い」とのみ言葉がいまもここにあります。
ゲッセマネの園は、エルサレムから谷を隔てて東側の小高い丘にあります。十字架の出来事が近づいたことを知っているイエス様は、ここで3回に及ぶ苦しみに満ちた祈りをささげられました。マタイ福音書には「悲しみにもだえ」「死ぬばかりに悲しい」という表現もあり、これが「イエス様にとって苦しみの時だった「ことをしめしています。
一つの物語を書いています。ライフワークの一つです。広島で出会った方のお父さんの物語です。その方は生れてくる子どもに出会うこともなく、8月6日に天に召されました。まだ母親が妊娠6ヶ月だったとのことで、自分はお父さんのことが何も記憶にないのです。そのお父さんが原爆をとおして生まれてくる子どもに手紙を書くという物語です。自分の死を知った上で、何を子どもに語るだろう。苦しみ、悲しみの中でどのような手紙を書くだろう。その苦しみの中にあって、神様が教えられること何だろう。戦争を知らない私に何が書けるだろうと思いめぐらしています。
イエス様の受難は、平然と受け止めることのできる事柄ではありませんでした。イエス様も迷い、苦しみ不安に陥り、孤独に悩みながら、しかしなお選びとられたものでした。この時、神様からの言葉はなにもありません。しかし、イエス様は「御心のままに」と祈られました。苦しみの中で神様に祈るイエス様をとおして、私たちがいま考えなければならないことは何かを問われています。
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