マタイ 4:24 人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。
あるお坊さんの講演会で「苦しみを捨て去ることはできない。でも苦しみから逃れることはでしる。苦しみから逃れるには苦しみを受け入れる事」という話を聞きました。人は生きているから苦しみがある。確かにそうです。それを受け入れることができればとも思います。しかし、それが出来ないから苦しんでいるのです。ただ、その苦しみを誰かがわかっていてくれればと願います。苦しみを受け入れるには、一人で苦しんでいるのではなく誰かが解っていてくれていることが大切なのかなと思います。
イエス様のもとには、人々によって多くの苦しみに悩む者たちが連れてこられます。その苦しみの質、量、状態はすべて違うものでした。しかし、イエス様はすべてを癒され、苦しみをとりのけてくださいました。私達が生きて行く中で多くの苦しみにとらわれています。なぜ苦しみはなくならないのかと思います。
ある仏教の本に「苦しみの質が変わるだけ」といエッセイがあります。「歩いている人は、自転車のほうがいいと思う。自転車の人はオートバイ、オートバイの人は車がいいと感じる。しかし、どちらにしてもそれぞれの苦しみがある。苦しみの質がかわるだけ。苦しみの量は増えるかもしれない。歩いている人にない問題が、車に乗っている人にはある。駐車場、維持費、交通違反など歩く人にない苦しみである」と。どんなに便利なものを求めても、苦しみがあるという教えでしょう。苦しみの本質は何かを考え、それをとりのぞくために何が必要かを考えること。さもないと質のかわった苦しみを何度も与えられることになります。
イエス様は、すべての苦しみを癒されています。どんな種類の苦しみも取り除けてくださっています。それは、すべての苦しみを自分の身に負うことによって、取り除けてくださるのです。十字架とは、イエス様がすべての苦しみを負ってくださった出来事です。だからこそ、私達は苦しみから解放されて生きているのです。
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