エフェソ 1:10 時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。
私とキリスト教の初めての出会いは、カトリック系の幼稚園に入園したことからでした。親がとくに意識したのではなく、近くにあった幼稚園に入れられたものと思います。しかし、その幼稚園との出会いが、いまを築いたと思われます。本当に楽しい幼稚園生活でした。しかも、年に1回ある健軍教会でのミサで、十字架に磔にされたイエス様との出会いが、牧師への道を決定づけたと言えます。それくらい衝撃的でした。その出会いが、時が満ちて高校の時に花開いたのです。
パウロは、キリストの「血によって贖われ、罪を赦された」ことを、神様の恵みによると言います。この恵みが隠されたものではなく、いまや公に公然と語られるようになったというのです。それは神様の時が満ちたからです。神様の時が満ちることで救いが完成され、すべてのものはキリストのもとに一つにまとめられると教えました。中心はキリストにあるというのです。
こども説教集「神さまのおべんとう箱」を出版しました。徐々に売れたらしく、少し安心しています。本は一人歩きをすると言われます。ある時、この本が熊本の聖母幼稚園に届いたことを知りました。園長先生が購入して先生方に配ってくださったのです。実はこの幼稚園は、私が卒園したカトリックの幼稚園です。この園のミサで、十字架のイエス様と初めて出会いました。その印象はとても強いものでした。あれから48年がたちました。その出会いが、神様の導きで信仰の実を結び、こども説教集として卒園した幼稚園に届けられたのです。神様が与えてくださる出会いは、かならず実を結び、救いの業が完成し、キリストのもとに一つとなっていくのです。
私たちの人生で起こっている神様の出来事は、秘められた計画かもしれません。どのような出会いがあり、いつ信仰の種がまかれているかわかりません。しかし、いつか時が満ちるとき芽をだし、実を結ぶのです。パウロは「時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます」と教えています。私たちの人生は、キリストのもとにひとつにまとめられる計画の中で生きています。救いへの道がすでに私たちの前に用意されているのです。
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