マルコ 7:31 イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。
仕事が溜まりすぎて余裕がなくなると、その仕事のみしか見えなくなります。なんとかそれをやってしまわないと先が進めないように考えてしまいます。そんな時、最近ではまず珈琲を飲むことにしました。ちょっとそこから離れて、その仕事を眺めることにしたのです。そうすると仕事の順番などがわかり、溜まっていた仕事がはかどることに気が付きました。
イエス様は、ガリラヤ湖の周辺で「耳が聞こえず舌の回らない人」を癒されました。聖書に「エッフアタ」という言葉が残されています。イエス様が話されたアラム語です。「開けよ」という意味です。癒された人だけでなく、多くの人々対して福音が開かれたということです。イエス様が、そこに行かれるまでの道のりが今日の箇所です。少しの距離を移動するのに、大きなまわり道をしておられるのがわかります。
ある日のことでした。帰りの電車の中に子供連れのお母さん2名と子供3名が乗ってきました。遊園地にいった帰りだったのでしょうか。乗ってくるなり興奮気味で、うるさく騒ぎまわっていました。帰りの電車で騒がれるとちょっと苦痛になります。まわりも冷たい視線でした。しかも、子どもたちは連結器のところで騒いでいるのです。子どもたちは常識がないのか怒りを感じたとき、ふと考えを変えてみました。「今日一日がとても楽しかったのだろうな」と。お友達と遊園地で伸び伸びと遊んできたのだろう。とても素敵な一日だったのだろう。すると問題は子どもたちではなく、ただ「シーシー」と言うだけで自分たちのおしゃべりに夢中な親のほうだなと。もし親が子どもたちに目をむけて、今日の出来事などを楽しく話していたら少しは「うるさい」という気持ちにはならないだろうと思います。何が問題かを知るには、その現象だけでなく大きく見ていくことも大切だと思います。
イエス様は「ティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた」とあります。大きなまわり道をしてこられたと考えることもできます。しかし、大きな視点をもって改めて宣教の中心であるガリラヤにやってこられたのです。つまりデカポリスの中心を知るために大きなまわり道をされたのでした。中心を知るうえで大きな視点を持つことを聖書は教えているようです。
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