マルコ 14:27 イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたは皆わたしにつまずく」。
東日本大震災のあと宗教界に変化がでてきています。臨床宗教師の働きもそうですが、「祈り」において一致するという動きがあるのです。キリスト教だけでなく、仏教も神道もその他の宗教も人の痛みに寄り添うことへと心を向け始めたのです。キリスト教は本来、仕える、奉仕するという名のもとに宣教をしてきました。そこにはとなり人になることを目指してきました。いま、となり人とは寄り添いであるという再解釈を与えられているようです。
イエス様は十字架におかかりになる前に、弟子たち全員に「あなたがたは皆わたしにつまずく」と言われました。そこでペトロの離反を予告されます。ペトロは「みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と断言します。しかし、つまずくことは悪いことでしょうか。イエス様の十字架につまずくとき、私たちには神様の深い愛に気づかせていただきます。ペトロもつまずいてそのことに気づきました。
あるコピーライターの方とお会いしました。彼から「お寺・神社・教会の役目は何か。どのようなコンセプトが考えられるか」と聞かれました。そして「何か『気づき』を与えてほしですよね」と言われました。教会にいくと、自分の人生で「何か気づく」。それを与える場であってほしいと。彼はあるお寺で「聖誕記念お札」というものを提案したそうです。参拝される方が生まれて何日目にそこに来たかというものです。仏とご縁を結ぶまで、生きてきた日数をお札に書いて渡すというものです。そう言われると自分も今日は生まれて何日目にあたるかと。実は19445日目です。神さまに守られてきた日数です。
イエス様は弟子たちに「あなたがたは皆わたしにつまずく」と言われました。「つまずく」というのは悪いことではなく、そこで「気づく」ことを意味します。イエス様はいったい何者か、どんなお方かを知るうえでつまずきも必要なのです。人生の途中でふと立ち止まって振り返る時間。それが「気づき」の時間です。そんな「気づき」があたえられる教会であればと思います。
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