ヨハネ 10:31 ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた。
初めて乗った地下鉄での出来事です。その地下鉄では女性専用車両が4号車と決められていました。私がいつも乗る地下鉄では1号車が女性専用車両だったため、ついうっかり4号車に乗ってしまいました。朝はやい時間帯でしたので、その車両には2・3名の女性しか乗っていなかったのです。発車時間近くになるとほぼ満席になりました。その間、居心地の悪さは感じていました。なんだか変な感じだなと。発車と同時にアナウンスが聞こえ、4号車が女性専用であるとわかりました。その時の表現しにくい雰囲気の悪さに圧倒されました。これがまさに空気が読めなかったということでしょうか。ただなんとなく貴重な体験をさせてもらったのではと思います
神殿奉献記念日にはお祭りがありました。バビロン捕囚から帰って来た人々が、第二神殿を建築し奉献した日として記念祭をおこなっていたのです。この記念日にイエス様は「わたしと父とは一つである」という宣言をされました。これにユダヤ人は激怒しています。激怒からイエスを殺そうと石を取り上げたのです。神様の子であるイエス様を殺そうとしている空気とは一体どのようなものだったのでしょうか。イエス様はそのような中で凛として立っておられます。
野村克也氏(元プロ野球監督)が、ある対談で次のようなことを言っていました。氏によれば野球の打者は打つさいに、「イチ、ニイ、ノー、サン」と唱えなければいけないそうです。この「ノー」が入らない打者は、「ノー(能)なしなのだ」と言っていました。バッターが構え、振り上げて打つとき、真っ直ぐの球ならその動作は「1、2、3」でよい。しかし、微妙な変化球を打つには「ノー」を入れた「間」が必要だというのです。大切なのはこの「間」だと言っていました。神様と私たちの間。それは近いようで遠いような間です。それを橋渡ししているのが十字架かもしれません。
イエス様は、「わたしと父とは一つである」と言われました。その言葉によって、ユダヤ人たちから「殺そう」とされました。「また石を取り上げた」という表現に、並々ならぬ憎しみを感じます。その時の雰囲気はいったいどのようなものだったでしょうか。それでもイエス様は毅然とした態度で真理を語っておられます。雰囲気に惑わされないみ言葉の確信がそこにあるのです。
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