1コリント 7:7 人はそれぞれ神から賜物をいただいているのですから、人によって生き方が違います。
お布施稼ぎが本当の生き方ではないと悟ったお坊さんがおりました。寺を飛び出したものの、物乞いをするわけにもいかず、普通の商売をするほどの俗物でもないお坊さんだったのです。そこでこのお坊さんは考えました。誰かにわらじの作り方を聞いて、毎日わらじを作っては人のよく通るところに置きました。そして「このわらじお代は心持ち次第」と書いて、竹筒をそこに置いたのです。こうして夕方になると竹筒のお金をとり生活していたのでした。ところがあるとき、悪たれ小僧が竹筒の中のお金をとり、そのあとに馬糞をいっぱいにつめておいたのです。そうとはしらずこのお坊さんはいつものように夕方お金を取りに行きました。しかし、開けてみるとお金ではなく馬糞がいっぱいだったのです。さてそのお坊さんはどうしたのでしょうか。いたずらとは考えず、「我が食尽きたり」と観念し、何も食べないで座禅したまま死んでしまったそうです。これも一つの生き方なのかと思います。
パウロは結婚生活における夫と妻の性について語っています。お互いの責任と権利という難しい言い方でかたられています。パウロ自身は独身であったためか「わたしとしては、皆がわたしのように独りでいてほしい」といいます。しかし、神様からいただいている賜物によって、人の生き方は違うと教えています。神様からいただく賜物に従って生き方を決めて行くというのです。
俳優の二谷英明さんの葬儀で、歌手の長渕剛さんが弔辞をしたというニュースがありました。弔辞は「お父さんが好きだった言葉、懸命に。その言葉を僕自身も胸に秘めて、これから先も懸命に生きてまいります」とまとめていました。弔辞というのはとても難しいと思います。ある人は自分の葬儀によまれる弔辞を書くという話もききます。最後に何を言われるかが気になるのでしょう。しかし、葬儀の弔辞で何を語ってほしいかを考えることは、自分がどんな生き方をしてきたかを示すことになります。自分の葬儀での弔辞にそった生き方を考えることは、人生をどう生きて行きたいかを知ることです。
パウロは「人によって生き方が違います」と言います。生き方は神様の賜物によってみな違うのです。神様の賜物に従ってどのように生きてきたか。また、どのように生きて行きたいかを考えます。その答えは天に召されたときにこの世に遺された者たちが知ることになります。私たちは、神様の賜物をいただき、感謝し、それにふさわしい生き方をしたいと願います。人によって生き方が違っても、神様の賜物が与えられているのはみな同じです。
<音声朝礼拝は「神様の色鉛筆」でどうぞ!>
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