ルカ 10:34 近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。
娘たちのお弁当作りをしたことがあります。作りながら洗濯、朝御飯の準備。子どもたちを起こしながら、登園の準備。まあ忙しいことといったらありません。それだけではありませんでした。様々な家事が待っていたのです。つくづく家庭を守ることの大変さを感じました。しかし、主婦の仕事はなんでもあるのだと思います。どんな仕事や役割も、すべては主イエスに仕えるということがなければむなしいものになっていきます。しかし、この仕事は主イエスに仕えているのだと感じたとき、そこには神様の祝福があるのです。
イエス様の有名なたとえ話に「サマリア人のたとえ」があります。「誰が隣人か」という律法学者の問いに、イエス様はたとえ話で答えられました。イエス様はその中で、サマリア人の行為について詳しく話されています。サマリア人は旅を続けねばならなかったのに、傷ついた人のその後まで配慮しています。そこで隣人愛について話されるのではなく、具体的な愛の行為について語られたのです。サマリア人の行為に「すべて準備されている」ということを見ることができます。
東日本大震災救援活動で、最初に現地にはいったキリスト教の団体は救世軍でした。3月12日には宮城県で炊き出し活動をされています。こんなに迅速に動ける組織は、いつ何があっても動ける機動力があるのでしょう。3月11日には教会を解放し、帰宅できない方の宿泊場所を提供。帰宅する人には地図を印刷して配布。すぐに教会で炊き出しを開始し、500食以上を提供したそうす。それだけの準備をすでにされていたということです。しかも、に教会に準備してあった炊き出しトラック、マイクロバスに5000食を積み込み、現地にむかい支援活動を12日から開始されたのです。救世軍の支援活動は、ミッション、ビジョンがはっきりいていたということを学びました。
イエス様はよきサマリア人のたとえで「近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した」と言われました。サマリア人は準備ができていた人でした。目の前に倒れている人に対して何をしなければいけないかという「心の準備」「具体的な準備」「これからの準備」ができていたのです。私たちも人生における「準備」ということを考えてみたいと思います。
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