ルカ 9:46 弟子たちの間で、自分たちのうちだれがいちばん偉いかという議論が起きた。
本教会で午後9時まで会議があったときのことです。少し遅い電車で帰宅することになりました。田園都市線は夜でも結構混んでおり、やや満員状態でした。次の駅でやっと降りられると思った時、電車は自動停車しました。そのまま動くのを待つしかありません。するとアナウンスがありました。「○○駅でお客様同志のトラブルが発生し、係が対処しております。しばらく停止させていただきます」と。とても暗い気持ちになりました。何があったかわかりません。でも大人の対応ではありません。そのトラブルによって何千という人たちに影響がでるのですが。自分たちのことで精一杯なのかもしれません。
イエス様の弟子たちの間で「だれがいちばん偉いか」という議論がおこりました。イエス様はその議論がおこる直前に、十字架の苦難のを予告しておられました。御自分の死を語られています。それを弟子たちは理解できなかったのです。イエス様は子どもの手をとって言われました。「わたしの名のためにこの子どもを受け入れる者は、わたしを受け入れる」と。いちばん偉い者とは、いと小さき者に仕える者なのです。
うらをみせ おもてをみせて ちるもみじ
良寛晩年の良寛が死をまえに詠んだもの(正確にはひとのうた)であるといわれています。最も当時の良寛のこころを現わしているものだといえます。 死をまえにして、自分の良いところも悪いところもさらけだして生きてきた、思い残すことはなにもないということです。私たちは良いところも悪いところも同様にもっています。しかしどうしても、良いところだけしかみなかったり、また悪いところは隠そうとしたり、気づかないようにしています。神様は私たちのどこを見ておられるのでしょうか。きっと両方だと思います。良いところも悪いところも、私たち自身のすべてを見てゆるし、しかもそんな私たち一人一人を大切に思っておられるのです。その自分を受け入れるのです。
イエス様は「わたしの名のためにこの子どもを受け入れる者」と言われました。いと小さき者のまえに自分をへりくだることができるかを問われます。どんな場面でも、状況においても相手を受け入れることを求められています。自分のことしか考えることができないならば、へりくだることも仕えることもできません。
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