マタイ 13:24 イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。
セキセイインコを飼っていたことがあります。ある日、このセキセイインコをながめていました。すると、餌を勢いよく食べるので、オリの外に餌こぼしていたのです。数分後にはスズメがきてそれを食べていました。なんだかその光景がとっても不思議だったのです。オリの中にいて、餌に不自由しないのが幸せなのか。食べ物だけを探して、一日中大空を飛び回るのが幸せか。どちらも幸せだと思いますが、それぞれの幸せの中にも不自由な部分があることに気がつきました。
私たちは幸せだけを求めています。しかしそれは、不自由さを一緒にもつ幸せでしかないのです。その不自由さを認めるか、認めないか。受け取れるか、受け取れないかなのです。
イエス様は「たねを蒔く人のたとえ」からはじまる7つのたとえ話をされました。イエス様は事あるごとに「たとえ」を話されているので、マタイによる福音書ではそれらをまとめて一つにしています。しかし、この箇所の「たとえ」にはテーマがあります。それは「天の国とは何か」です。いろんな方向から見ることによって一つの真実が明らかになるように構成されています。聖書も一つの方向から読むのではなく、多くの角度から読む時に福音の真理がわかるように構成されています。
話し合いの席でよく議論に「勝った」「負けた」という言葉を聞きます。討論の場なら分かりますが、よりよい方向へ向かう協議の席では違和感を覚えます。「議論に勝った」という意味は「自分の主張が通った」ということのようです。相手が何を言おうとも自分が決めたことは譲らない。それが正しいことで、正義は自分にあると一方的に主張する。そのようなやり方がお互いの徳を高める協議になるとはかぎりません。むしろ議論が対立しているときは「第3の道を共に探る」というのが話し合いの場だと思います。それは譲歩するのではなく、対立を超えてなおよい別の道を得るための方法だと思われます。
イエス様は天の国の話をされるとき「別のたとえを持ち出して言われた」とあります。天の国を人々に説明するためのいくつかの話をしておられます。一つの事柄をたくさんの方角からみることによって、その真実を示すためでした。その真実が人々の福音として明らかにされるのです。いろいろな角度からみてお互いの徳を高めることも同じことだと言えます。
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