マルコ 9:17 群衆の中のある者が答えた。「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません」。
地区青年会と牧師達とが集まり、ある教会にてワ-クキャンプが行なわれました。聖卓のペンキ塗りや、床ワックス、礼拝堂の整備がおもな仕事でした。やりながら、ある牧師が、「このような仕事はやればそれだけすぐに結果がでるから楽しいね」といわれました。そうだなと思いつつ、神様がなさる仕事はすぐに結果はでないけれど、確実に結果はでるのだと考えていました。みるみる整備されていく礼拝堂は、やっているほうにも恵みを与えてもらったようです。「すぐに」という言葉は素敵な言葉として聞こえてきました。
イエス様の所に汚れた霊に取りつかれた息子が父親につれてこられました。弟子たちにいやしを頼んだのだが、弟子たちのちからではそれができなかったというのです。このとき弟子たちは自分たちの無力さに直面させられています。そこで父親は息子をイエスさまのそばに連れて来たのです。このそばにつれてくるという行為はイエス様との距離を縮めることになりました。
通勤電車の中で人は何をしているかをながめている時がありました。10年位前は漫画雑誌、週刊誌を読んでいる人が多かったと思います。最近ではスマホをいじっているがゲームをしているか。とくにメールのやりとりは頻繁に見受けられます。ところが最近メールのやり取りで刑事事件に発展することがでてきました。一方的な文章を突き付けられて、「怒り」「落胆」「嫉妬」などの感情が増幅されるためです。「相手が言いたいことだけを一方的に言われた」という不満が爆発するためです。それを解決する方法は一つしかないと言われています。メールのトラブルはメールでは解決できない。すぐに電話することだと。直接話すことは相手に近づくことだというのです。
父親は霊にとりつかれている息子をそばにつれてきました。イエス様のそばにつれてくるということは、イエス様との距離を縮めるということです。私たち信仰者の務めもイエス様との距離を縮めることです。そのことが福音を伝えるということです。多くの人々に福音が伝えられていくとき、イエス様との距離が縮まり、人々の交わりの距離も縮まっていくのです。
<音声朝礼拝は「神様の色鉛筆」でどうぞ!>
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