箴言 15:1 柔らかな応答は憤りを静め、傷つける言葉は怒りをあおる。
「慇懃無礼」という言葉があります。表面の態度は丁寧だが、心の中では相手を見下し馬鹿にしていること。またはそういう行為と国語辞典にはかいてありました。ただこの言葉の本当の意味は何かを考えています。大企業大企などがクレーマーに対して謝罪を行う場合、行き過ぎてこのような状態に陥りやすいので注意が必要と言われます。また、個人の間ではプライドが高く尊大で自意識過剰な人間が、丁寧な口調や文体で他人に対し議論や謝罪を行う場合に、このような態度?が見られる場合があるとも。意図的に行うものと、無意識に行うものがおり、判断に苦しむ行為であるというのが正解のようです。人間関係によって、無礼になったり丁寧になったりするのでしょう。この言葉は関係の上になりたっているものです。
箴言15章はひきつづき生活の知恵、格言がかかれてあります。その中でも特徴的なことは3節です。「どこにも主の目は注がれ、善人をも悪人をも見ておられる」と教えています。人間はつねに神様との関係の中で生きているというのです。神様との関係のなかで、人と人の関係もまた与えられています。
私たちの脳は、右脳と左脳とでは働きが違うといわれています。いわば分業をしているとか。左の大脳半球は言語脳といわれ、言葉を話したり、読み、書き、計算、分析などの担当です。これに対して右の大脳半球は感性脳といわれ、音楽や美術を鑑賞したり、直感のような感性の担当です。たとえば、ある同じ音楽を二人に聞かせる。一人は作曲家、一人はただの音楽好き。聞かせながら脳の断層写真をとると、作曲家は左脳に多く血液がながれ、ただの音楽好きは右脳に多くの血液が流れるのだそうです。曲を分析する作曲家とただ演奏に浸っている音楽好きの違いなのでしょう。信仰はどちらの担当でしょうか。実は右脳なのだそうです。つまり、悩み悲しみを理解するこころの優しさという感性が、信じることへの道を開いていくのでしょう。やっぱり信仰とは分析ではないのです。それを越えたところの感性に神様が働きかけてくださるのです。知的なところよりも大切なもの、そこに信仰の働きがある。その深いものを各自が与えられているのです。
箴言は「柔らかな応答は憤りを静め」と言っています。大切なことは「応答」ということです。言葉が慇懃無礼になるのは一方的だからです。「傷つける言葉は怒りをあおる」からもわかるように、そのような言葉は一方的なものなのです。イエス様は多くの人々と対話をされました。応答しておられます。言葉の中心に信仰をもって応答することが求められているのかもしれません。
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