ルカ 1:45 主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。
神様がこの教会に託されている「宣教の力」は、いったいどのくらいあるのでしょうか。私としては底知れぬものがあると実感しています。ところが、まだまだ教会の礼拝は空席の方が多い。なぜでしょうか。その責任は神様にあるのでしょうか。神様の「宣教の力」を信じ、全てを捧げることのできない私たちに責任はあるのです。「できることしかできない」との言葉を良く聞きます。しかし、神様の宣教の前では、その言葉は通用しません。できないことをも要求されるのが神様なのです。つまり、神様ができると言われることを、私たちができないとはいえないのです。まずは神様の力を信じることが求められていると思います。
イエス様の母マリアは、受胎告知を受けたあと親類のエリサベトを訪問します。神様のお告げによって身重になった2人がそこで出会いました。エリサベトはマリアの訪問を喜び「あなたは祝福された方です」と挨拶をしました。その時マリアのことを「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方」と言いました。マリアの「お言葉どおり、この身になりますように」との言葉を受けてのことでした。
保育園では新年度がはじまると、帰りの時間近くに門のところに立っている子どもたちがいます。お迎えを待っているのです。保育園に泣きながらやってくる子どもたちです。小さな子どもたちが、たとえ昼間であっても親元からはなれて園で生活するのは大変ことです。不安で寂しいのでしょう。朝から泣き叫ぶ子どもに親たちは約束をしていきます。「5時には迎えにくるからね」と。だから門のところで待っているのです。しかし、多くの親は5時に迎えに来ることはできません。園長先生は「できない約束はしないでください」と言われます。この時、子どもの心のなかで「信じる」ということがどのように受け止めているのでしょうか。
エリサベトはマリアの訪問を受け「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」といいました。神様は必ずみ言葉どおりに実現される方です。それを信じることが私たちに祝福をもたらします。必ず実現するから信じることもできます。信じる心を育てるには裏切らないことだと思います。
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