ローマ13:1 人は皆、上に立つ権威に従うべきです。
ニュースで「こんな上司はいやだ」というアンケートをしていました。それによると、1位・気分によって言うことが変わる。2位・責任をとらない。3位・自分の間違いを認めない。4位・接する相手によって態度が変わる。5位・飲み会ばかりする、とありました。上に立つ者の果たすべき役割の自覚を思います。
パウロは「上に立つ権威に従うべき」と言いました。この言葉はこれまでも間違って受け取られてきました。「上に立つ」ということの理解です。しかしここでパウロがいっていることは「上に立つ人」に従えとは言っていません。上に立つ人はその人の置かれた立場、役割、何によって立っているのか(これが権威です)を十分に自覚しなければなりません。教会でも役についている者は、神様の業を果たすために、神様によってこの役職をいただいています。
街の清掃キャンペーン集会で代表が言われました。「ゴミを拾う人はゴミを捨てない。ゴミを拾わない人がゴミを捨てる」。とても納得して聞きました。この集会は、街からゴミをなくそうという運動集会でした。ゴミをなくすにはゴミを捨てる人が少なくなればいいのですから、「ゴミを捨てないようにしましょう」でいいのです。しかしあえて「ゴミを拾う人はゴミを捨てない。ゴミを拾わない人がゴミを捨てる」と言われたことに感銘をうけました。いままで何回も「ゴミを捨てるな」という言葉を聞いてきました。そのように実践もしてきました。しかし、捨てるなではなく「拾おう」というところに発送を転換させたのです。ゴミを拾う人は捨てないのであれば、拾う人を増やせばいいのです。また拾うという行為に、みな善いことをしているという実感と喜びも生まれてきます。「捨てるな」という否定よりも、「より積極的に拾いましょう」のほうがいいのです。言葉も伝え方次第で違うものです。人を動かすには権威をもって命令した方が早いかもしれません。そこには共感は生まれないし、言われたときだけということになります。イエス様の言葉は、権威ある新しい教えではあっても、命令ではありません。
パウロは「人は皆、上に立つ権威に従うべきです」と教えています。上に立つ権威とは神様のみ言葉しかありません。そこに権威があり、そのみ言葉に従うのです。上に立つ人ばかりをみるとき、失望が多いものです。しかし、その人に語られているみ言葉が示されたとき、私たちはそのみ言葉の権威にしたがうのです。だとすると上に立つということは、イエス様のみ言葉を常にいただき、それをしめさなければなりません。
<音声礼拝説教は「神様の色鉛筆」でどうぞ!>
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