ヤコブ 1:22 自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。
若いカップルが喧嘩をしていました。どうもお互いの意志疎通ができずに言い合いをしているようでした。盗み聞きはいけないとおもいながら、自然と聞こえてくる声にどうしようもなく聞いてしまいました。実は男の子はとてもおしゃべりで、自分の意見だけをまくしたてていたのです。女の子も何か言いたいのだけど、黙っていました。その男の子がしゃべらせないのです。「何か言いたいことある?」「ないよね」「何か言ったら」「言わないなら僕が言う」とずっと話していたのです。相手の話を聞くことの難しさを思いました。聞き流す、聞くだけよりもっと悪い状況のように思えました。
聖書の中には「聞く」というみ言葉はたくさんでてきます。聞くこととはどんなことでしょうか。聞いたらそれによって何かが起こることを意味しているようです。ヤコブは「聞くことだけに終わるもの」になってはいけないと諭しています。聞いて理解し、そして行うことがもとめられています。その行いは「受け入れる」ということです。
北原白秋の詩を読んでいましたら、次のような詩に出会いました。
落葉焚けばおもしろ、
櫟(くぬぎ)の葉はふすふす。
萱(かや)の葉はちょろちょろ、
松の葉はぱちぱち。
なんという心の余裕でしょうか。ふつう焚き火をするときなど、騒ぎ回って静かな心でその音を楽しむなんてことはありません。よっぽど静かな心で焚き火を見つめていないとわからない音の違いがあるのです。
ヤコブは「自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません」と教えています。たいていの人は「聞くだけ」になります。しかし、しゃべり続ける人は「聞くことさえできない」人です。聞くことは相手を受け入れることです。それがなければやっぱり「聞くことさえできない人」になってしまいます。せめて聞くだけからはじめて、本当の聞くことを学んでいきたいと願います。それは受け入ることへとつながっていくからです。
<音声礼拝説教は「神様の色鉛筆」でどうぞ!>
最近のコメント