マルコ 8:34 わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
読売新聞に、女優・吉永小百合さんの対談のことが書かれていました。彼女は「どんなときに、もう若くはないと感じを抱きましたか」という質問に、「涙がまっすぐに流れないで、横に走ったときです」と答えたというのです。これを聞いて、ある歌人の方が「女優じゃなければできない表現だろう」と言っていました。「女優でなければできない表現」というところに「ピン」ときました。なぜ女優でなければできないのか、それは経験、知識、与えられた賜物から言葉が発せられるからです。だとすると、私にも、私にしかできない表現というものがあります。しかしその表現によって、その人のすべてが見えてしまうということもあります。
イエス様は、死と復活を預言したあと、自分をわきへ寄せていさめはじめたペトロを叱りつけられます。十字架へ進む道を邪魔したからです。そのあとにイエス様に従う道を具体的に示されたのが「自分を捨て、自分の十字架を背負って」という呼びかけでした。イエス様と共に歩むようにと語りかけられたのです。イエス様なりの表現と招きです。十字架というのは死を意味します。そうなると、自分の十字架とは、自分の死を背負ってということになります。私たちはイエス様に従うとき、それはすべてを背負って従うのです。そのすべてには、その人にしかわからない死もあるのです。
東京郊外にある、カトリック教会を訪問する機会があたえられました。その礼拝堂は「木」を主体に統一された聖堂でした。中に入ると聖卓のスポットのスイッチがあるのに気づきました。スポットはシンボルである十字架に向けられていました。ちょっとつけてみようかなと、スイッチをいれてみました。すると、そこに映し出されたものに、思わず声が出るくらい感動したのでした。なんと、スポットに映し出されたのは、十字架の影だったのです。つまり、両方からスポットがあたるので、正面には3本の十字架(2本は影)が映し出されていたのです。まるであのゴルゴタの丘の再現がそこにあると思いました。主イエスが十字架におかかりになったとき、両方にも同じように十字架が立っていました。しかし、一人の者は死ぬまで主イエスを罵り続けていたのです。その姿が影となって私の前に現れていたのです。主イエスを信じること。信じ抜くこと。従うこと。はたしてそれはどんなことなのでしょうか。
イエス様は「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われました。イエス様でなければできない表現があります。「わたしに従いなさい」という御言葉もその一つです。神様だから言える言葉の中に、私たちの命を支えるものがあります。イエス様がつねに語りかけてくださるみ言葉はすべて、私たちの命のためです。だからこそ「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言えるのです。
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