「言葉」というのはどこから出てくるのかなと思う時があります。自分の語る言葉や、話す言葉。音として伝わるものもあれば、人の心に嫌な思いを抱かせる言葉も多いものです。そんな「言葉」はどこから出てくるか。それは人の中から、その人自身、内から出てくるのではと思うのです。
先週のことでした。ある会合でプロジェクターの横にいたので、機械の冷却風にむせて「ゴホン、ゴホン」と咳をしていました。気管支が弱いので、けっこう咳をしていました。すると、ある方がそっと飴を2個くださいました。とっても助かりました。会合もおわりその方に「飴助かりました。ありがとうございます」とお礼にいったのです。その時の言葉が胸に突き刺さりました。「こんな乾燥した所で、あなたみたいに人の多い中ゴホゴホやられたらたまったもんじゃない。迷惑」と。確かにその通りだと思いました。周りの方々に配慮もかけていたなと。反省しました。
しかし、その言葉は心に突き刺さる哀しくなる言葉でした。他にも言い方はあるだろうに。この人の言葉はどこから出てくるのだろう。人を思いやっているという言葉からだろうか。いつもそのような言葉を話す人かもしれません。本当は愛情たっぷりなのに、言葉に出てくると人に嫌な思いをさせる言葉になったのかもしれません。しかしどちらにせよ、言葉は相手に届いたときにあともどりはできないものになります。そんなつもりで言ったのではないという言葉でも、届いてしまったらそんなつもりになるのです。
しかし。その言葉はやっぱり言葉にした人の内からでてくるものです。内のものは必ず外にでてくる。イエス様もそういわれました。きつい言葉でもその人の中に愛情があればそれは嫌な言葉としては届かないと思います。上から言葉、威圧する言葉、馬鹿にした言葉。これらは届いた側が感じる事なのです。だからこそ内なる言葉、信仰を大切にしたいと感じました。