黙示録 2:5 どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。
罪という言葉を理解するのは大変です。何が罪であるか。犯罪という罪ではなく、信仰生活の中での罪とは何かということです。ある神学者はキリスト教用語の言い換えをしました。たとえば信仰は究極的関心という具合です。その中で罪とは疎外と言い換えています。簡単にいえば的外れということです。神様の救いという中心から的が外れているということです。的が外れているからもう一度、その的へ帰らねばならないのです。
本日読みました黙示録の箇所は、エフェソの教会にあてた手紙の一節です。ここに「落ちる」という表現があります。これはキリスト信仰から外れることを意味しています。エフェソの人々は初期に伝えられた福音とは異なる信仰に陥っていたようです。むしろ信仰の緩み、疲れが問題とされています。このような状況の中で、神様に従うことへ立ち返るように「悔い改め」を筆者は勧告しているのです。
「二十四時間教会の扉に鍵をかけない」ということは、私たちのこの地域への奉仕のあらわれです。また神様への信頼でもあります。この精神でどこの教会にいっても鍵はしませんでした。しかしある教会では礼拝堂にあった献金が盗まれてしまいました。さらに続けて献金箱が盗まれてしまいました。二十四時間鍵をかけないことを始めたのは、そういうことは覚悟の上でしてきたはずでした。いざ起こってみると、いろいろな意見が出てきます。「鍵をかけない教会に責任がある」「お金をこまめにあつめない牧師・役員に問題がある」「せめて牧師室だけは鍵をかけるべき」「盗んで下さいと置いてあることが問題だ」「教会を開放するのが間違い」「鍵はかけるべき」と。どれもこれももっともです。しかし、どれもこれも間違いです。私が鍵をかけないときめたのは、神様の働きのためでした。人のためではなかったはずです。人を誘惑に陥れるためでもありません。神様の栄光があらわれるためでした。何が問題かをしっかり考えるべきです。
今日の聖書でも、「どこから落ちたかを思いだし」とあります。その出発点で何があったかを思い出せをいうのです。出発点が一番の問題だからです。それがわかったら悔い改めること、そして神様が与えてくださった道にもう一度立ち返ることを教えているのです。私たちも何か問題を抱えた時、安易に答えを出して決めるのでなく、問題の発生源にいきつくとこまで考えみたいと思います。そこに解決のカギがあるからです。
<音声礼拝説教は「神様の色鉛筆」でどうぞ!>