ヨハネの手紙1 3:18 子たちよ、言葉や口先だけでなく、行いをもって誠実に愛し合おう。
被災地救援には多くの宗教団体がやってきました。特にキリスト教関係の方々とはよく話をさせていただきました。みな聖書のみ言葉を生きるという使命をもって被災地にこられていました。「なんでもします」という思いにみな感動したものです。日頃キリスト教は口先ばかりという批判をいただいておりましたので、そうではないという一面を証し出来たかなと思います。仕えることの本質を身もってしめしていたのだと思います。
ヨハネは「互いに愛し合おう」と呼びかけています。この教えはイエス様が教えられた戒めを起源とするものです。しかし、互いに愛し合う「愛」をどのように学べばいいのでしょうか。ヨハネは「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました」と言っています。十字架の中に「愛」を見ると教えています。愛し合うということは、互いに苦しみを担い合うことでもあるのです。
子どもたちの感性には、大人をあっと言わ せるものがあります。子育て中の私などは、毎日が気づきの時ですが・・・。その子どもの言葉に、次ぎのようなものがあります。
「運動場で遊ぶとき、
みんなは、せまいせまいと、
文句をいう。
でも、運動場の掃除をするとき、
みんなは、ひろい、ひろいと、
文句をいう」。
運動場の大きさは変わらないのに、人の置かれた状況や、考え、心の持ち方でせまくもひろくもなる。子どもにとっては、不思議なことなのでしょう。私たちは「自分の物差し」を持っています。それはそれでいいことですが、その物差しを絶対にしたり、その物差しは「みんなの物差しと同じ」だと考えてしまうものです。人間の物差しは、100人いれば100の物 差しがあります。そして、みんな自分の物差しが正しいと信じています。しかし、この世界で絶対なのは神様の物差しだけなのです。神様の物差しは「愛」です。
ヨハネは「言葉や口先だけでなく」と言っています。そこに愛がなければどんな素晴らしい表現であっても人の心には届きません。被災地におられる方の苦しみ痛み悲しみを深く思いながらそこに身を置いたからこそ、そこには祈りが生まれたのだと思います。
<音声礼拝説教は「神様の色鉛筆」でどうぞ!>