2コリ 1:4 神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。
「人間の痛みとか、苦しみとは何のためにあるのだろう」と考えるときがあります。神様は何のために、私たちに痛みや苦しみをお与えになるのだろうかと。その度に与えられる答えは一つでした。「神様を知るため」です。私たちは痛み苦しみの中で、神様と出会うのです。三女が幼稚園の頃のことです。高熱をだして苦しんでいました。親として変われるものならば、その高熱を引き受けたいと思います。しかし、どうすることもできません。親はただ祈るのみです。娘にもそれを教えました。「苦しいけれどきっとイエス様がいっしょにいてくださるから。お祈りしようね」と。そして手を頭において祈ったのでした。
パウロは、2通目のコリントの信徒への手紙を、あらゆる苦難の中で私たちを慰めてくださる神様を称賛すすることから書き始めています。パウロをはじめ、彼と共にいる多くの信徒たちが受けた慰めによって、あらゆる苦難にあっている人々を慰めることができると言います。パウロにとって、キリストの苦しみに共に与ること、それが満ちあふれることで、キリストによる慰めも満ちあふれるといいます。共に苦しみに与ることが、共に慰めも与えられるのです。
被災地での聞き取り調査、傾聴ボランティアの依頼を受けたことがあります。どちらも大変難しいと感じました。まず私自身がどうすれば被災者に信頼されるか。こんな私に心を開いてお話くださるかと思ったからです。話してくださる方言もうまく理解できない。その土地の言葉をどう聞きとるか。そう考えていたとき、被災者の方が言われました。「被災者の聞き取り調査や傾聴が本当にできるのは、同じ苦しみを体験した被災者なんだよなあ。でもそんな余裕なんていまはないだべ」と。確かにそうだと思いました。同じ苦しみを体験しているからこそ心をあわせることができる。そこに慰めが生まれてくるのだと思います。それができない私たちは、いまは必死に泥出し作業を共にし、細かなニードに対応し、心をかよわせていくしかありません。
パウロは「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます」と言います。キリストが十字架で受けられた苦しみで、私たちの苦しみを慰めてくださるのです。共に苦しんでくださる神がおられる。その苦しみから立ちあがる力をくださる神を信じている。私たちの活動の中心には苦難を受けたイエス様がおられます。
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