ヘブル 12:10 肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。
ある経済関係の本に「キリスト教が新興宗教に比べて伸びないのは、次の3つを全面にだして宣伝しないからだ。これを信じると『金が儲かる』『健康になる』『家内安全』と」。なるほどだなと思いました。その作者は続けて、具体性にかけるからだと言っていました。キリスト教はなぜそのようなことを言わないか。それが目的ではないから。魂の平安を望んでいるから。信じることによってすべてのものを感謝してうけることができるから。などなど考えてみました。私たちはなぜイエス様を信じているのでしょうか。それは一人一人でお答えが違います。それでいいのです。なぜ信じているかより、イエス様を信じて従ったわたしはいま平安に満たされています、ということのほうがすばらしいことです。
ヘブル書は肉の父と霊の父を比較させてのべています。肉の父とは、肉体の生命の根源である人間としての父のことです。霊の父とは普遍的な父の事をさしています。それは神様のことです。その霊の父はつねに私たちの益となるように考えてくださる。それが霊の父の目的であるというのです。
カーナビを使用するようになって、地図を手に持って調べることが少なくなりました。というより、地図をみるのが面倒くさくなってきたのかもしれません。目的地を設定し、あとはナビにまかせて走るとそこに着くのです。ところが目的地をきちんと設定することを間違うと、とんでもないことになります。あるとき、温泉名を間違えて設定したことがありました。目的地に近づくにつれて「何か変だな」と思いつつ、しかしナビを信じて走りました。結局到着した目的地はまったく違う温泉だと、着いてみてはじめてわかったのです。目的地の設定を誤ると、とんでもないことになるということが理解できました。
神様が私たちに試練を与えるのは「御自分の神聖にあずからせる目的で」とヘブル書はいっています。それは私たちの益となるためというのです。目的は鍛えることではなく、神聖にあずからせるためです。そのことが私たちの人生に益となることを知っておられるのです。目的は何かを見失わないようにしておきたいと願います。
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