マルコ 2:17 医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。
「世の中には優しさという言葉が流行っているようだが、悪を生きたことのない人には優しさなんて表現できないのではないか」。これはある文学賞を受賞された作家の言葉です。「悪を生きる」とはどんなことでしょうか。私は善でありたいし、人からもそうみられたいと思います。もしも「悪」と言われたらきっと落ち込むでしょう。しかし、その落ち込みが優しさを生むのかもしれません。イエス様は聖書時代の律法学者たちからは「悪を生きた」方でした。しかし、それが故に律法学者たちに見捨てられた人々に「優しさ」の表現ができる方だったのです。「自分が善だ、自分は正義だ」と言い切る人たちには優しさは感じられません。優しさを持つと自分だけではいきていけないからです。悪に生きるとは、弱さに生きることかもしれません。
イエス様は、徴税人レビが収税所に座っているのをみられました。そして「わたしに従ってきなさい」との一言で彼を弟子として招かれ、そこで一緒に食事をされました。これを見たファリサイ派の律法学者たちはイエス様を厳しく批判しました。徴税人は律法に即した正しい生き方をしているとはみなされず、罪人とされていたからです。それに対して言われたみ言葉が「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」というものでした。
マザー・テレサの言葉に「訪ねて来た人に、来る前よりもいい気分、幸せな気分になって帰ってもらえるようにしましょう」というのがあります。これは客を招く時の最低限の礼儀であり、おもてなしだと思います。しかし、マザー・テレサはもう一言付け加えています。「あなた自身が神の優しさを表現する人になりなさい」と。私たちは神様の優しさを表現するという視点をもって、人と接することが大切だと思います。イエス様ならどうされるかを、つねに考えて行動することが求められています。
イエス様は「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と言われました。本当に救われなければならないのは罪人です。罪人とされている人たちもいます。イエス様はあえて自分を正しいとしている人たちにではなく、本当に救いを待っている人たちのところに行かれました。神様の優しさの表現は、このイエス様のみ言葉と行いでよくわかります。
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