ローマ 12:18 せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。
喫茶店でPTAのお母さん方が楽しく話していました。はじめはよかったのですが、ボルテージが上がっていきました。ちょっとうるさかったのですが、楽しそうかな?位にみていました。すると近くにいた若い女性がいたたまれなくなったのでしょう。ついにお母さん方に注意をしたのです。「いい大人なのですから、場所をわきまえてください」と。何か深刻な話をしていたのでしょうか。お母さん方は「なに言っているの?この子は」という目で見ておられました。その光景をみて、どっちもどっちかなと思ってしまいました。たしかにうるさかったのですが、彼女も言い方は間違っていなかったかなと。「いい大人なのですから」ではなく、「会話ができないので少し話声のボリュームのさげていただけませんか」とか言えなかったのかな~と。また、お店の人に言ってもらうとか。「いい大人なのですから」ではそのあとは両者がいやな気持になっただろうなと。
パウロは、キリスト者を迫害する人々に対して、どのように生きていくべきかをかたります。特に「迫害する者のために祝福を祈りなさい」と教えています。祝福より呪うほうが気分的にスカッとしますし、自分の心も安定するように思います。しかしそうでしょうか。「呪い」はさらなる「呪い」を生むだけです。「祝福を祈ること」は簡単なようで一番難しいことです。しかし、そこからしか平和ということばはみえてこないように思います。
子どもがどうやって信仰を継承していくのか、それは神様だけが知っておられます。伝わっていないようで、じつは確実に伝わっているものがあります。聞いていないようで、ちゃんと聞いているものなのです。まだ次女が小さかったときのことです。彼女は朝早く一人で目を覚ましました。初めはやることが無かったらしく、鼻水の固まったものを取っては、一つ一つ自分の枕に並べていました。横目でみながら、朝から他にすることはないのかと、わが娘ながら情けなく思っていました。ところが、八時の教会の鐘が聞こえると枕の上に建ち、両手を上げていきなり「アーメン、アーメン、アーーーメン」とアーメン三唱を歌うではありませんか。私たち家族は朝一番に、寝ている間に祝福を受けたのでした。誰が教えたのでもありません。毎週礼拝に出て、礼拝堂を走り回っていてなにも聞いていないようでも、ちゃんと肝心なことは覚えているものだと驚いてしまいました。なんだかとっても嬉しい朝でした。
「せめてあなたながたは」というパウロの言葉が妙に心に響きます。すべての人と平和に暮らすことができるのは、相手を責めることで成り立つのでなく、祝福を祈ることです。「呪うのではなく、祝福を祈るのです」という言葉から、自分が何をなすべきか考えなければと思います。
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