1コリント 12:26 一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。
事務局体制の変更にともない、3つに分かれていた部屋を1つにすることにした時があります。その時の体制変更のテーマは「共に」です。これまで別々に働いていた私たちが、「共に」集まるということです。部屋のレイアウトを考えるとき、中心にテーブルを置き、そこに全員が向くように設定しました。テーブルの上に十字架と聖書を置きます。この配置は、いつでもすぐに中心に集まって協議ができるということです。しかしもっと大切なことは、キリストがこの事務局の中心であるということです。キリストを中心に共にあるということです。
パウロは「キリストにあって一つ」ということを強調しています。「体は一つでも、多くの部分からなり」というとき、それぞれの個性や働きはいろいろあっていいが、中心はひとつであるというのです。その中心はキリストです。ここをきちんと押さえておくことが求められています。何のための個性、働きであるか。すべてキリストの業のためです。キリストにあってこそ「共に」が生きるのです。
お釈迦さんの言葉につぎのようなものがあります。
「過ぎ去れるを追うことなかれ
未だ来らざるを想うことなかれ
過去、そはすでに捨てられたり
未来、そはいまだ到らざるなり
今日まさになすべきことを熱心になせ
誰か明日死のあることを知らんや」
私たちは今年1年どうだったかと考えると、なにもできてなかったかもとくよくよします。とかく過ぎ去ったものを、どうにもならないことを、いつまでも背負い込み、引きずっているかもしれません。しかし、大切なのは「今日・いま」をどう生きているかだと思います。過去は戻ってこないし、未来はまだこない。であるならば、過ぎ去ったものを今どのように糧にして生きているかが問われています。なんて、カッコよく書いていますが、実際はくよくよしながら生きていかねばならないのです。イエス様は、そんな私たちと共に歩いておられます。私たちの人生の中心にはイエス様が生きて共におられます。
私たちの働きは多いですが、これもキリストを中心とした働きです。神様から委ねられた働きをしています。この働きにもキリストが中心にいてくださって成り立っています。みなさんのご協力をお願いいたします。
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