創世 11:8 主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。
よく聞く言葉に「赤信号、みんなで渡ればこわくない」というのがあります。そのようなことは笑い話として扱われますが、結構同じことをしていることに気がつきます。私たちは「ひとり」が「みんな」になったとき、より傲慢になっていくようです。その「みんな」が大勢の人数ではなく、2,3人であることが多いようです。「みんなが、みんなが」と言う時は、自分勝手にやりたいということです。神様の目からみた自分をいつも考えておかなければ人は傲慢になっていくものです。
旧約聖書の中で有名な「バベルの塔」の話です。ノアの洪水のあと東の方から移動してきた人々は「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と、塔のある町を建てました。これがバベルの塔の話です。神様はこの行いの中に、神との境界線を破り、自分たちを神としようとする人間の傲慢をみておられます。ところが神様は、再び洪水をおこして人間を滅ぼすことはなさいませんでした。そのかわり制限を加えられました。言葉の混乱(バベル)と人々の拡散でした。
九州の山奥に過疎化のために若者が一人もいなくなった村があります。この村が若者に帰ってきてくれるために努力した話を聞きました。きっと涙ぐましい努力があったと想像しますが、その逆でたいへん楽しい努力だったそうです。まず、村のお年寄りは「楽しさ」をテーマとしました。とにかく楽しい村にしようとしたのです。いろいろな計画がもちあがり、何が一番楽しいかを考えました。結果的には自分たちが一番楽しいことがいいとなったのです。そこでみんなで梅の木を植えまして、梅製品を造り始めたのです。なんでそれが楽しいのかといえば、その梅製品の販売利益でみんなでハワイ旅行をしようときめたのです。そして、その旅行の楽しさや、梅造りの楽しさを新聞にして、村から出ていった若者に毎月送り届けたというのです。「いまこれが楽しい」「みんなでいったハワイ旅行は楽しかった」「村のこれがいま楽しい」などなど、楽しいことを企画してその楽しさを届けたのです。数年後その村がどうなったかおわかりでしょう。いまや若者とお年寄りのバランスのいい村となったのです。みんなの中になにか他者との関係があればいいのですが。
神様はバベルの塔の建設に、人間が神様になろうとする傲慢をみられました。聖書は「主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた」と記されています。散らされた民が一人になって自分を振り返る時をもつこと。そこからまた新しい人生がはじまるのだと思います。
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