ヨハネ 3:16 神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
ある時、不思議な夢をみました。私が見た夢はこうです。夏の暑い日のことでした。とても暑いので洋服を脱ごうとしたのです。ところが脱ごうとしてもすぐに洋服を着せられるのです。暑いなあと思いつつ必死で服を脱ごうとするのだけど、すぐにもう一枚きせられる。それが何枚も何枚も。最後には雪だるまのように服だるまになって、暑いって騒いでいるというものでした。
目覚めて笑ってしまいました。この夢は説き明かしていただくほどのものではなく、いまの状況なのでしょう。一つの仕事をしようとしたら、すぐに新しい仕事がやってくる。終わらないうちに新しい仕事に手をつけねばならず、それが次ぎから次ぎとやってくるということでしょう。それに追いつかずに混乱して、自分自身で悲鳴をあげているということだと思います。こんな状況はどうすればよいのでしょうねえ。たぶん、特別に何もしなくていいのだと思います。そのような状況だよと神様が教えてくださったということが大切だなと感じました。そのままで愛されるということでしょうか。
ヨハネ福音書の中で、最も有名な箇所です。たいてい好きな聖句のトップにこの聖句が上げられます。神様が、独り子であるイエス様を十字架の死に渡してまで、私たちを愛してくださったのです。私たちの罪を赦しあがなうためです。「たち」というより、これを読む人は「私」と置き換えます。こんな私のために、神様がそこまでしてくださったことに感謝するのです。
会話の中でよく聴く言葉があります。「すみません」という言葉です。本来「ありがとう」と言うところで、「すいません」といいます。何も悪いことはしていないのに謝っているように聞こえます。しかし、ある仏教のお坊さんの解釈を思い出しました。「すいません」という言葉は、「私」はこれまで多くの人、出会い、物、大自然のおかげで今日まで生きてくることができた。しかしそれに対して何一つ恩返しができていない。つまり「すみません(申し訳ない)」という気持ちを表した言葉ですと。あなたからの恩になにも返せなくて「すみません」ということです。
神様から私たちが頂いたものを数えることができません。(あまりにも多くて)イエス様の命までも頂いたのです。神様に何を返していけばいいのでしょうか。いや、返すことを神様は望んでおられないと思います。「ありがとう」と感謝して受け取ればいいのです。そして、頂いた恵みを隣人と分かち合い、「あなたも神様から愛された存在ですよ」と伝え、隣人に仕えることが「すみません」の本当の生き方だといえます。
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