ルカ 9:55 イエスは振り向いて二人を戒められた
「短気は損気」という諺があります。最近では「短気」というより「キレル」という言葉の方がよく聞きます。すぐカッとなる性格だけではおさまらない時代になってきました。なぜ「キレル」という表現に変わったのかわかりません。しかし、「キレル」さまを落ち着いて考えてみると、問題はささいなことのようです。私たちは、自分の考えや意見が通らない時、まったく違った意見がでたとき、冷静に考えることが下手です。そのような時には自分のみが正しい考えだと思っている時かもしれません。この「自分のみ」が「キレル」原因かもしれません。
イエス様は、十字架の時が近づきエルサレムへ向かう決意をされました。その時サマリアの村を通られました。ところが、村人はイエス様を歓迎しませんでした。弟子のヤコブとヨハネはカッとなり、「天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言ったのです。その言葉に対してイエス様は戒められました。
ある本の中に次のような話しを見つけました。子どもが絵を書いていた。先生がやってきて尋ねた。「面白い絵ね。なにを描いたの?先生に教えてくれる?」「神さまだよ」「そう。でも誰も神さまを見たことがないから、本当はどんな姿をしているかわ からないわね」「もうすぐわかるよ、せんせい。ぼくの絵はもうすぐできるからね」この話しを読んで少しばかり考えてみました。先生には見えない神さまが、子どもにはどうして見えるのだろうか。幼子の心の清らかさといってしまえばそれまでです。しかし、少なくともわが子をみていると、まあ清らかな部分もあるけれど、私たちと同じだと思ってしまいます。大切なのは、「神さまを信じているか」ではないでしょうか。疑って「見る」のと、はじめから信じて「見る」のとでは違います。私たちはイエス様の何をみているのでしょうか。神の子としての姿は見えているでしょうか。
イエス様は、なぜサマリアでは歓迎されなかったのでしょうか、答えは「エルサレムを目指していたから」です。これまでユダヤ人から、宗教、思想、考えの違いによって迫害をうけ、敵対していた歴史がそこにあるのです。自分のみが正しいのではなく、歓迎されない理由もちゃんと知っておられたイエス様が「短気をおこして罪を犯すな」と言われたのです。
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